大河ドラマ「光る君へ」に登場する人物

源雅信 - ホームメイト

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「源雅信」(みなもとのまさのぶ)は、平安時代中期の貴族で、「宇多源氏」(うだげんじ)の始祖です。当時勢力を強めていた藤原氏と政治的に対立しながら、天皇の権威を守るために尽力。しかし、娘である「源倫子」(みなもとのりんし)は、政敵の息子である「藤原道長」(ふじわらのみちなが)に嫁ぎ、のちに最高権力を握る藤原道長の栄華を支えていくのです。2024年(令和6年)の大河ドラマ「光る君へ」では、「益岡徹」(ますおかとおる)さんが演じます。

源雅信の生涯

天皇の孫として生まれる

源雅信

源雅信

「源雅信」(みなもとのまさのぶ)は、「宇多天皇」(うだてんのう)の孫として、920年(延喜20年)に誕生。父は宇多天皇の第8皇子・「敦実親王」(あつみしんのう)で、母は藤原道長の曽祖父で太政大臣だった「藤原時平」(ふじわらのときひら)の娘です。

三男だった源雅信は、936年(承平6年)、16歳のときに臣籍降下(しんせきこうか:皇族の身分を離れ臣下となること)して源の姓を賜り、公家となります。

臣下になったとは言え、宇多天皇の孫であった源雅信は順調に出世し、宇多天皇のひ孫である「円融天皇」(えんゆうてんのう)の治世では、信頼を得てさらに権力を握っていきました。

藤原氏と権力争い

当時は、藤原氏が娘を天皇の妃にすることで、皇太子の外祖父となる「摂関政治」を行っていた時代でした。外祖父という立場で政治に口を出すとともに次第に権力を強めていった藤原氏は、摂政や関白の座を独占するようになったのです。

円融天皇は、そんな藤原氏に対抗するため、源雅信を左大臣に出世させ、一上(いちのかみ:公卿の筆頭)としました。源雅信も、天皇の権威を守るために力を尽くし、自らの立場を固めるために、娘の源倫子を入内させようとします。

しかし、源倫子と年齢が釣り合っていた「花山天皇」は早々に退位してしまい、次代の「一条天皇」や「三条天皇」は、源倫子より10歳以上も年下。なかなか入内が決まらないうちに、源倫子は政敵の家柄である藤原道長の妻となってしまいます。993年(正暦4年)に享年74で死去するその年まで、源雅信は老いてなお天皇を支え続けました。

源雅信の逸話

真面目な堅物

源雅信の父・実親王は、琵琶(びわ)の名手として有名だった人物です。その影響もあって、源雅信も音楽に通じ、有職故実(ゆうそくこじつ:朝廷や公家の伝統的なしきたり)や和歌、蹴鞠にも才をみせた万能の人でした。

一方で、真面目すぎる一面もあり、若き日に仕えた「村上天皇」(むらかみてんのう)からは、公務の話しかしない堅物と敬遠されました。

娘の源倫子が政敵の息子と結婚するまで

源倫子

源倫子

源雅信には、本妻の「藤原穆子」(ふじわらのぼくし)が産んだ2人の娘がおり、天皇の妃にしようと大切に育ててきましたが、藤原道長が思いを寄せたのは姉・源倫子。源雅信は、入内を考えていた娘へ恋文を送ってきた藤原道長に怒り、断るつもりでいました。

源雅信の一族は天皇の血を引いているのに対して、藤原道長は当時勢力を拡大していた藤原家の男子であっても五男でしかなく、官位も高くありません。

しかし、源雅信が妻の藤原穆子に相談したところ、藤原道長には見どころがあると、藤原道長との結婚を勧め、あろうことか藤原穆子は強引に源倫子を藤原道長に嫁がせます。それが987年(永延元年)のことで、翌988年(永延2年)に、源倫子は女の子を産みました。

これが、のちに入内して一条天皇の中宮(天皇の正妻)となる「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)で、藤原道長が摂関政治によって権力者へとのしあがるきっかけとなった娘です。源倫子はその後も天皇や皇太子の妃となる娘を3人、のちに摂政・関白となる息子を2人産み、藤原道長の繁栄を支え続けました。