安土桃山時代

関ヶ原の戦い前後の勢力図 - ホームメイト

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「関ヶ原の戦い」は、安土桃山時代の1600年(慶長5年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた大規模な戦いです。「徳川家康」を総大将とする東軍と、「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将として「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍が激突。関ヶ原をはじめとする日本各地で合戦が繰り広げられました。「天下分け目の戦い」とも言われる関ヶ原の戦いは、文字通り全国の大名や武将を二分し、その命運を分けたのです。そんな関ヶ原の戦い前後の時代背景について、戦国大名の勢力図を交えながら見ていきましょう。

関ヶ原の戦いへの布石

豊臣秀吉、天下統一までの概要

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1582年(天正10年)6月、天下統一を目前にした「織田信長」が志半ばで自刃します。この「本能寺の変」のあと、いち早く動いたのが「豊臣秀吉」でした。豊臣秀吉は謀反を起こした「明智光秀」を討伐し、翌年の1583年(天正11年)には 織田氏家臣団の中で対立していた「柴田勝家」(しばたかついえ)を「賤ヶ岳の戦い」にて撃破。

1584年(天正12年)には、「小牧・長久手の戦い」で敵対した「徳川家康」と和睦すると、1587年(天正15年)までに紀伊国(現在の和歌山県、三重県南部)と四国、九州を平定します。

ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉は「大坂城」(現在の大阪城)の築城にも着手。そして関白(天皇を補佐して政務を担う公家の最高官職)となって豊臣政権を樹立したのち、大名同士の争いを禁止する「惣無事令」(そうぶじれい)を発します。豊臣秀吉の天下統一までには、関東と東北地方を残すのみとなったのです。

1590年(天正18年)豊臣秀吉が天下統一

1590年(天正18年)「小田原征伐」当時の武将勢力図【図①】

1590年(天正18年)「小田原征伐」当時の武将勢力図【図①】

当時、関東一円を支配していたのは「北条早雲」(ほうじょうそううん)を家祖とする北条氏(後北条氏とも)でした。豊臣秀吉は、北条氏家臣の「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が真田氏の領土である「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡)を襲撃した「名胡桃城事件」が惣無事令に違反するとして、1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ乗り出し、北条氏を滅亡させます【図①】。

この小田原征伐に参陣するよう命じられていたものの遅参した東北の「伊達政宗」は、減封(げんぽう:領地の削減)されますが、豊臣秀吉に恭順の意を示しました。織田信長の跡を継ぐかたちで躍進した豊臣秀吉は、主君の死からおよそ8年で天下統一を果たしたのです。

豊臣政権内に火種を生んだ朝鮮出兵

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、次の目標を中国の「明」(みん)に定めました。その手始めとして、朝鮮を支配下へ置くため1592年(天正20年/文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度にわたって出兵。それぞれ「文禄の役」、「慶長の役」と呼ばれる朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病没したことにより頓挫(とんざ)します。

朝鮮出兵は、参戦した「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)といった西国の大名に重い負担を強いただけでなく、「石田三成」ら豊臣秀吉の側近との間に亀裂を生じさせる結果となりました。石田三成はもともと豊臣秀吉からの命令を伝えたり、戦場からの報告を行ったりする連絡役を担っていたため、石田三成に不本意な報告をされて処罰を受ける者も多くいたからです。

実際に戦場へ出て戦う軍務担当の「武断派」と、石田三成を中心とする官僚の「文治派」との対立は、関ヶ原の戦いへと至る火種となっていきます。

徳川家康の台頭

豊臣秀吉亡きあと存在感を増す徳川家康

豊臣秀吉は病に倒れたとき、自身の後継者となる幼い「豊臣秀頼」のために、政務を担う「五大老」と、実務担当の「五奉行」という制度を定めていました。五大老には、筆頭の徳川家康や大老「前田利家」(まえだとしいえ)らが名を連ね、五奉行には石田三成らの名が挙がっています。

徳川家康

徳川家康

また、豊臣秀吉は大名家同士の婚姻や、知行(ちぎょう:所領の支配権)のやり取りにかかわることを禁じていました。しかし、徳川家康はこれらの取り決めには従わず、有力大名家との婚姻を進めたり、知行への関与を独断で行ったりしたのです。

こうした政権運営により徳川家康は勢力を伸ばすことになりますが、大老の前田利家には諫められ、石田三成ら五奉行からは反発されることになってしまいます。

1599年(慶長4年)豊臣政権の分裂

1599年(慶長4年)「石田三成襲撃事件」当時の武将勢力図【図②】

1599年(慶長4年)「石田三成襲撃事件」当時の武将勢力図【図②】

石田三成

石田三成

一方、朝鮮出兵以来の武断派と文治派の対立もくすぶった状態にあり、騒動に発展してしまわないよう前田利家が仲裁役として心を砕いていたのです。ところが、1599年(慶長4年)閏3月に前田利家が死去。

仲裁役を失ったことで大名同士の対立は一気に表面化し、福島正則や加藤清正、「黒田長政」(くろだながまさ)ら武断派の7将による「石田三成襲撃事件」が起こります。石田三成は逃れて、徳川家康の取り成しにより事態は収まりますが、石田三成は一旦失脚することになり、政権内での徳川家康の力は増していきました【図②】。

徳川家康の東軍と石田三成の西軍が結成

石田三成の失脚を受け、徳川家康は豊臣政権の中枢である大坂城へ入り、政務を主導することになります。

しかし、権力を握りつつあった徳川家康の命に従わない大名がいました。それが会津(現在の福島県西部)の領主で五大老のひとりでもある「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)です。上杉景勝に謀反の意志ありと断じた徳川家康は、会津征伐を決意。1600年(慶長5年)6月には遠征のため大坂城を出立しました。

その機会を狙って挙兵したのが石田三成です。石田三成は中国地方の大大名である毛利輝元を総大将として、諸大名に呼びかけて兵を集めると、徳川家康の家臣が守っていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)を攻撃しました。

遠征途中で石田三成挙兵の一報を受けた徳川家康は、軍議を開き、会津征伐を中止して石田三成の軍と戦うことを決定。自軍の大半を西へ戻す中、徳川家康自身は一旦領地の江戸へ寄り、西国の大名や家臣へ向けて多くの手紙を書き、根回ししていたとされています。

関ヶ原の戦い当日

1600年(慶長5年)日本を二分した戦い

1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」直前の武将勢力図【図③】

1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」直前の武将勢力図【図③】

1600年(慶長5年)9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍は、交通の要衝であった関ヶ原で戦火を交えました【図③】。

小早川秀秋

小早川秀秋

開戦当初は、山側に布陣した西軍が優勢だったと伝えられていますが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)をはじめとする西軍の一部武将が東軍へ寝返り、また「吉川広家」(きっかわひろいえ)のように軍を動かさないことで東軍に与する武将も現れて形勢は逆転。これは、開戦前に行った徳川家康の西軍諸将に対する根回しが効果をもたらしたとも、石田三成に人望がなかったことが原因とも言われています。

関ヶ原の戦いにおける戦闘自体は6時間程度で決着。両軍ともに多くの犠牲を払い、東軍が勝利しました。

合戦終結後の処分と褒賞

西軍の中心人物であった石田三成は敗戦後に逃亡していましたが、捕らえられて「小西行長」(こにしゆきなが)、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)とともに京都で処刑されます。西軍総大将の毛利輝元は、周防国(現在の山口県東南部)と長門国(現在の山口県西部)の2ヵ国へ減封されるものの毛利家は存続。西軍の副将だった「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は八丈島(東京都八丈町)へ流罪となりました。

この他の西軍大名もそれぞれに処分を受け、領地を没収されています。また、関ヶ原の戦い以前には全国を支配していた豊臣家の領地は、大坂周辺の650,000石へと減封され、大名家のひとつへと陥落。これらの豊臣家や西軍大名から没収した領地は東軍の大名へ褒賞として分配されました。

徳川家康自身の直轄地も2,500,000石から4,000,000石へと増やして圧倒的な力を示しています。その後の1603年(慶長8年)、徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任命。江戸幕府を開き、幕府と、臣従している諸大名の藩により構成された「幕藩体制」と呼ばれる権力体制を築いたのです。

泰平の江戸時代へ

大坂の陣で豊臣家が滅亡

1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」当時の武将勢力図【図④】

1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」当時の武将勢力図【図④】

江戸幕府を開いた2年後、徳川家康は三男の「徳川秀忠」に将軍の地位を譲り、静岡の「駿府城」へ移って大御所となりました。しかし、徳川の世はまだ完全に安泰とは言えなかったのです。大坂の豊臣家は一大名へと地位を下げたとは言え、徳川家に臣従することなく、大名や公家に対する権威を維持していました【図④】 。

そんな状況の中で起こったのが1614年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」です。豊臣秀頼が再建を担った「方広寺」(京都府京都市東山区)の鐘に記された銘文に「国家安康」(こっかあんこう)、「君臣豊楽」(くんしんほうらく)の文字があることを知った徳川家康は、「家康の名を切断し、豊臣家の繁栄を願うものだ」と非難。これを理由に豊臣秀頼の本拠地である大坂城への攻撃を決定します。

徳川家康の大軍に囲まれた大坂城は、1614年(慶長19年)冬の「大坂冬の陣」をからくも乗り切りましたが、翌1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」では炎に包まれ、豊臣秀頼とその母「淀殿」(よどどの:本名[茶々])が自害。豊臣宗家は滅亡しました。

関ヶ原の戦いに勝利し、覇権を握った徳川家康は、大坂夏の陣の終結によって完全な全国支配を実現します。大坂夏の陣の終結直後、徳川幕府は諸大名の統制を目的とした「武家諸法度」と「一国一城令」を制定するとともに、元号を「慶長」から「元和」へと改めました。その後、江戸時代は約260年にわたって続き、長い太平の世を謳歌したのです。

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