徳川15代将軍

徳川家康が行った江戸時代の大名配置 - ホームメイト

文字サイズ
江戸時代における「大名」とは、江戸幕府から10,000石以上の所領を与えられた武士のことです。天下統一を果たした「徳川家康」は、徳川将軍家が全国を統治する世を築き上げるために、大名を3つに分類して全国に配置しました。徳川将軍家の一門である「親藩大名」(しんぱんだいみょう)、昔から徳川家(松平家)に仕えていた「譜代大名」(ふだいだいみょう)、「関ヶ原の戦い」を機に家臣となった「外様大名」(とざまだいみょう)に分けられており、それぞれの家格に見合った待遇が与えられただけでなく、各大名が担う役割にも違いがあったのです。

江戸時代の大名配置とは

外様大名を遠国に配置した理由

関ヶ原の戦い後、徳川家康は敗者となった西軍93大名(合計5,600,000石)に、改易(かいえき:武士の身分を剥奪し、領地などを没収する刑罰)や減封(げんぽう:武士の領地や城などの一部を削減する刑罰)といった処分を科します。そして、これにより空いた領地を、徳川家康に味方した外様大名へ分配。外様大名らの領地は、大幅に加増されることになりました。このときに徳川家康は、自身による支配体制を確固たるものにするため、大名を配置する場所にいくつかの工夫を施しています。

1664年頃の大名配置図(第5代将軍 徳川綱吉の時代)(イメージ)

1664年頃の大名配置図(第5代将軍 徳川綱吉の時代)(イメージ)

まず、親藩大名譜代大名は江戸周辺の関東地方に始まり、東海地方、近畿地方といった政治や経済、軍事上の要地に配置。外様大名については前述の通り、領地の加増は行われたものの、その多くがもともとの領地からの国替えを伴っており、九州地方や四国地方、東北地方など、江戸から遠く離れた土地に配置されたのです。

また、親藩大名と譜代大名のなかには、外様大名の領地を分断するように配置される者もいました。これには、外様大名が徳川将軍家に仕えるようになったとはいえ、江戸幕府にとっては潜在的な敵である可能性は捨てきれないという考えから、外様大名同士が連携して反乱を起こさないように、監視する狙いがあったと考えられています。

大名配置で場所以外に施された工夫

徳川家康が行った大名配置には、場所以外にも特徴がありました。 それはひと言で言うと、「石高」と「権力」におけるバランスの調整です。江戸幕府には「老中」(ろうじゅう)や「若年寄」(わかどしより)などの要職が設けられていましたが、実はこれらに就けるのは、大名のなかでも譜代大名に限定されていました。

それにもかかわらず、譜代大名の石高は一般的に低く、将軍に次ぐ幕府の最高職である老中の大名家でも、100,000石未満であったと言われています。江戸幕府は譜代大名に対し、幕政への関与を認める代わりに財力を持たせないようにすることで、謀反を防ごうとしていたのです。その一方で、外様大名には広い領地を与えることで、要職に就けない不満を解消させていたと推測されています。

もちろん江戸幕府滅亡までの間には、国替えや領地の没収などもありましたが、徳川家康が行った外様大名を江戸から遠ざけ、親藩・譜代大名を江戸周辺や要地となる場所に配置するという基本方針は、おおむね変わることはありませんでした。江戸幕府はその樹立後、およそ265年間に亘って存続した事実を考えると、徳川家康が様々な工夫を施しながら行った大名配置は、徳川将軍家の揺るぎない支配体制を維持させた要因のひとつであったと言えるのです。

有名な親藩大名

尾張徳川家

名古屋城

名古屋城

徳川家康の男系男子を始祖とする親藩大名のなかでも、随一の家格を有していたのが「尾張徳川家」。徳川宗家(徳川家康の正嫡の家系)の血筋が途絶えたときのために予防的に作られたのが、徳川姓を名乗る「徳川御三家」で、その筆頭が尾張徳川家でした。

尾張徳川家は、尾張国(現在の愛知県西部)の他、三河国(現在の愛知県東部)、美濃国(現在の岐阜県南部)の一部を所領とし、要所を治めながら、城郭や寺社などの建築木材を大量に生産していた木曽(きそ:現在の長野県木曽郡)を領有。

藩祖は徳川家康の九男・「徳川義直」(とくがわよしなお)で「名古屋城」(愛知県名古屋市)が本拠でした。石高は619,500石とされていましたが、木曽の山林収入などを含めると、実際には1,000,000石以上あったと言われています。

尾張徳川家は、「尾張は、将軍位を争うべからず」(尾張徳川家の者は将軍の座を望んで争ってはならない)という藩祖・徳川義直の家訓を守り、圧倒的な家格を誇りながらも最後まで将軍を輩出しませんでした。

紀州徳川家

徳川御三家のひとつで、尾張徳川家に次ぐ家格を有していたのが「紀州徳川家」です。藩祖は徳川家康の十男・「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)で、「和歌山城」(現在の和歌山県和歌山市)を拠点に紀伊国(現在の和歌山県・三重県南部)の他、伊勢国(現在の三重県北中部)の一部を所領とし、555,000石の石高が与えられています。

紀伊国はもともと小豪族が多く、戦国時代には紀伊国北西部の武装集団・「雑賀衆」(さいかしゅう)が「織田信長」に強く抵抗していました。このように、もともと統治しにくい地域であることから、徳川家康は再び反乱勢力が活発にならないように、紀伊国に親藩大名を配置したのです。

紀州徳川家は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)を輩出して以降、江戸幕府に対して大きな影響力を持つようになり、幕末には江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)も輩出しました。

水戸徳川家

徳川御三家のなかで最も低い石高でありながら、「副将軍」の異名で呼ばれていたのが「水戸徳川家」です。参勤交代を行わずに江戸に定住して幕府に仕える「定府大名」(じょうふだいみょう)で、江戸にあった水戸藩(現在の茨城県水戸市)の武家屋敷「小石川邸」(こいしかわてい:現在の東京都文京区)から江戸幕府の北関東拠点である水戸藩を統治しました。

藩祖は徳川家康の十一男・「徳川頼房」(とくがわよりふさ)で、最終的な石高は350,000石と少ないものの、徳川将軍家をそばで支える役割を持っていたため、「天下の副将軍」と呼ばれたのです。

9代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の七男が、一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ:徳川御三家と同様に、将軍の跡継ぎを輩出することを目的として設立された3つの家柄・「御三卿」[ごさんきょう]のうちのひとつ)を相続したあと、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)として、江戸幕府最後の将軍を務めました。

有名な譜代大名

酒井家

酒井忠次

酒井忠次

譜代大名は徳川家に仕え始めた時代によって細分化されており、室町時代松平家(のちの徳川宗家)が「安祥城」(あんじょうじょう:現在の愛知県安城市)を拠点としていた頃から仕えていた最古参の譜代大名を「安祥譜代」(あんじょうふだい)と言います。

そして、安祥譜代のなかでも筆頭の一族が「酒井家」です。酒井家には「左衛門尉酒井家」(さえもんのじょうさかいけ)と、「雅楽頭酒井家」(うたのかみさかいけ)があり、左衛門尉酒井家からは「徳川家康第一の功臣」と称えられる「酒井忠次」(さかいただつぐ)、雅楽頭酒井家からは江戸幕府の老中・大老を務めた「酒井忠世」(さかいただよ)や「酒井忠勝」(さかいただかつ)を輩出。

左衛門尉酒井家は外様大名が多い東北地方に譜代大名の筆頭として配置され、庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)の藩主を幕末まで務めました。また、江戸幕府最後の大老を、雅楽頭酒井家の「酒井忠績」(さかいただしげ)が務めており、酒井家は江戸幕府の重鎮として幕政を支える役割も担ったのです。

本多家

酒井家と同様に安祥譜代として有名なのが「本多家」(ほんだけ)。本多一族は50家を超える大名・旗本を輩出しており、酒井家と同じく石高は高くないものの、軍事・文事どちらの面でも徳川将軍家を支えました。

なかでも、敵軍から「家康に過ぎたるもの」(徳川家康にはもったいない人物)と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、酒井忠次とともに「徳川四天王」や「徳川三傑」のひとりに数えられ、徳川家康の重臣として活躍。

本多家は交通の要衝である桑名藩(現在の三重県桑名市)を任されたあと、西国の抑えとして姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に配置され、西国の豊臣家を監視する役割を持ちました。

井伊家

譜代大名のなかで最大の石高を有したのが、松平家が安祥城から「岡崎城」(愛知県岡崎市)へ拠点を移してから服属した「岡崎譜代」(おかざきふだい)の「井伊家」(いいけ)です。酒井家と本多家よりもあとに家臣となった井伊家ですが、「井伊直政」(いいなおまさ)が徳川家康に見いだされて武功を挙げ、関ヶ原の戦いのあとも側近として活躍したことで、徳川四天王のひとりに数えられます。

井伊家は交通の要衝である近江国佐和山藩(現在の滋賀県彦根市)に配置され、「彦根城」を築いて拠点とし、普段は西国と北陸の抑えとなって、有事の際には朝廷へ駆け付ける役割を担っていました。

3代藩主「井伊直孝」(いいなおたか)が、江戸幕府3代将軍「徳川家光」の後見役となったことから、大老職が始まったとされています。井伊直孝の代に300,000石の譜代大名となって以後、幕末まで5代6度にわたって大老を輩出。彦根藩から1度も転封(てんぽう:領地を変えること)することなく、幕政を支え続けました。

有名な外様大名

島津家

関ヶ原の戦い後に家臣となった外様大名のなかで、徳川将軍家と良好な関係を築いて雄藩となったのが「島津家」(しまづけ)です。

関ヶ原の戦いでは西軍に属して徳川家と敵対していたものの、戦後交渉で所領安堵(しょりょうあんど:所領を奪われずそのまま治め続けられること)となり、薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)として外様大名となります。薩摩藩の石高は770,000石で、「加賀百万石」で知られる加賀藩(現在の石川県金沢市)に次ぐ石高を誇りました。

また、徳川将軍家と婚姻を結ぶことで関係を深め、江戸時代を通して将軍の正室を2人も輩出しています。当初は江戸幕府と有効な関係を築いていたものの、幕末には一転して討幕運動の中心的存在となりました。

毛利家

萩城址と指月山

萩城址と指月山

関ヶ原の戦いで西軍の総大将だった「毛利家」(もうりけ)は、終戦後に中国地方1,120,000石から周防国・長門国(現在の山口県)の360,000石に減封(げんぽう:領地を減らされること)となり、長州藩として外様大名に分類。

江戸幕府は瀬戸内海に面する交通の便が良い場所を避け、長州藩のなかでも不便な地である萩(はぎ:現在の山口県萩市)に築城を命じています。

以降、江戸幕末に無断で山口に新たな藩庁を置くまでは、「萩城」(山口県萩市)を居城としていました。減封されたものの、一国の君主である国持大名として雄藩のひとつに数えられています。

また、長州藩は薩摩藩と同じく、幕末の討幕運動の中心となりました。

池田家

豊臣秀吉」の没後に徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い後に「姫路城」(兵庫県姫路市)を大改築した外様大名が「池田家」(いけだけ)です。戦国時代には、徳川家康の娘・「督姫」(とくひめ)を娶り、徳川家康に忠誠を誓って「石田三成」(いしだみつなり)と対立。関ヶ原の戦いの前哨戦である「岐阜城の戦い」で戦功を挙げます。この功績から、戦後に播磨国姫路藩520,000石に加増転封となり、姫路城を「白鷺城」(しらさぎじょう)と呼ばれる美しい城へと改築しました。

姫路藩は西国の外様大名を監視する重要な役割を持っていたため、外様大名のなかでも信頼できる池田家が置かれたのです。

また、池田家は親藩大名以外で初めて参議(さんぎ:朝廷における最高機関の官職のひとつ)に任じられており、松平姓を名乗ることを許されています。徳川家康との縁組は、明治維新にいたるまで池田家を繁栄させました。