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2023.07.26

利便性や効率性を追い求めていけば、人は幸せになれる?

利便性や効率性を追い求めていけば、人は幸せになれる?
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野外教育を意義あるものと思う人は多いと思います。では、人にとって野外とはどんな意味をもっているのか、野外のなにが教育的なのか、と深掘りしていくと、その答えが難しいことがわかります。そこで、野外教育の意義や価値を言語化するための研究が、本学で行われています。

現代社会において生まれた野外教育

土方 圭 野外教育が教育のひとつの分野として捉えられるようになったのは、日本では1960年くらいからです。その背景には、戦後の日本で急速な近代化や工業化が興り、特に、都市部では、人の生活が自然環境からかけ離れていった状況がありました。

 そこで、学校をはじめとする各種教育機関が、自然環境での体験を教育活動の一環として取り入れていったのです。臨海学校や林間学校もその具体例と言えます。

 確かに、人は、海や山などの自然にふれると爽快な気分になるとか、気持ちが良いと言います。しかし、だから野外教育は良いとか、効果があるというのでは、野外教育の説明としては、当然、不充分です。

 そもそも、自然とは人にとってどういうものなのか、と掘り下げて考えていくことが、野外教育の意義や価値を把握することに繋がり、その教育効果をより効果的にする可能性があると考えています。

 まず、現代人は、なぜ、それほど気持ち良いという自然から、かけ離れるような生活のスタイルを取り入れていったのか。

 要は、人工的なテクノロジーやシステムが、生活の利便性や効率性を向上させていったからです。例えば、落ち葉を集めて火をおこす工夫をするよりも、点火スイッチを押すだけのコンロの方が、はるかに簡単で便利です。

 人はそうした利便性や効率性を際限なく求め、その結果、テクノロジーもとどまることなく発展してきました。

 現代では、インターネットを通じて、誰でも、手軽に、会ったこともない、顔も知らない様々な人の発信する情報にアクセスできたり、個人でAIを活用し、判断を委ねたりすることもできます。

 つまり、生きていくために、自分なりに考えたり、工夫したり、経験や知恵を蓄積しなくても、様々な道具や、手軽に取得できる情報などを活用して、より楽に、効率的に生きていくこともできるわけです。そうした発展は、私たちにとって良いことのように思えます。

 でも、本当にそうでしょうか。例えば、そんな効率の良い現代文明の中で生きるAさんとBさんがいたとして、ふたりの違いとは一体何でしょうか。つまり、Aさんとは誰で、Bさんとは誰なのか。もっと言えば、AさんやBさんが生きていることとは、どういうことなのでしょう。

 私たちは道具(テクノロジー)を使いこなしているようで、実は、道具が稼働しやすいように均質化され、ある意味、道具に使いこなされていないでしょうか。その結果、効率を求めて誰もが同じような人、テクノロジーの奴隷になってしまっているかもしれません。

 そもそも、人とは、存在すること自体が価値のあることです。それは、AさんもBさんも同じです。一方で、その人となりの価値は、Aさん自身、Bさん自身が培い、育み、意味づけをしていくものです。それが、ひとりひとりの生きる強さ、人の本来の強さ、そして幸福にもつながっていくのではないでしょうか。

 現代文明は、そうした生き方をスポイルしていると言えないでしょうか。

 ところで、そんな環境で暮らす都会人が、自然は気持ち良いと感じるのはなぜでしょう。

 その理由の根底には、身体が自然に属しているという生物学的事実があります。しかし、現代人には複雑な社会に生きるうえでの様々な理由があるがゆえに一概には言えず、人それぞれという部分も多く含んでいます。自然は一瞬たりとも同じ風景にはなりません。まさに、自然は多様で不確定であり、その感受の仕方も人それぞれだからです。

 しかし、そのように一概ではない側面をも含むのが、自然と人との関係性であるとすれば、そこに、野外教育の本質的な部分があると言えるかもしれません。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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