日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第1章 / 1.2 中世ヨーロッパの社会 / 1.2.3 封建制と14世紀の危機

1.2.3 封建制と14世紀の危機

 図表1.12(再掲) 中世ヨーロッパの社会

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(1) 封建制

封建制とは…

 図表1.14 封建制のしくみ

封建制のしくみ

封建制とは、土地を媒介とする政治・社会制度で、騎士※1や諸侯※2は上位の諸侯や王などに忠誠を誓って軍務を提供するかわりに、封土※3と保護を受け、農民は騎士や諸侯などの領主に貢納※4や賦役※5を提供する代わりに保護と支配をうける制度である。

※1 騎士 主に中世において騎馬で戦う者に与えられた名誉的称号、およびそれから派生した階級を指す。(Wikipedia「騎士」)

※2 諸侯(しょこう) 封建時代のヨーロッパで一定の支配地と臣下をもった領主階級。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)

※3 封土(ほうど) 封建君主が家臣に封建的義務を履行させるための物的基礎として与えた恩貸物件。土地が通例だが、官職や収入を伴う権利、のちには定期金も含めるようになった。(コトバンク〔百科事典マイペディア〕)

※4 貢納(こうのう) 世襲した農民保有地を耕作することを認めてもらう代わりにそこで収穫された作物の一部を納めるもの。(コトバンク〔旺文社世界史事典〕)

※5 賦役(ふえき/ぶえき) 君主や領主への農民の負担が、現物や貨幣の支払いによるのではなく、生の労働の形で提供される場合を賦役という。(コトバンク〔世界大百科事典〕)

ヨーロッパ封建制の起源註123-1

ヨーロッパの封建制は、ゲルマン民族の従士制と恩貸地制、およびローマ時代の大土地所有制から始まった。従士制は有力者に忠誠を誓って保護を受ける制度、恩貸地制は従士が騎馬戦士として奉仕するかわりに土地を与えられる制度であり、大土地所有制は土地を所有する貴族が奴隷や農民に土地を耕作させるものだった。イスラムやノルマン人の侵入などの軍事的緊張に対応するために、8世紀ごろから封建制が普及し、10~13世紀に最盛期を迎えた。

ドライな封建制

日本の封建制も、主君の「御恩」(=封土の提供)に家臣は「奉仕」(=軍務の提供)でこたえる註123-2ものだが、ヨーロッパの封建制はきわめてドライな個人と個人との契約関係である。特に領主間の関係においては、一人の領主が複数の領主と契約を結ぶことはざらにあった。例えば、フランスにはイギリス国王とフランス国王の双方を主君とする領主はたくさんいたし、イギリス国王はフランス国王の臣下でもあった註123-3

地域性

北フランスやイングランド、ドイツ西部などで封建制は広く普及したが、南欧(南フランス、イタリア、スペイン)では、あまり普及しなかった。南欧では、ローマ時代の貨幣経済が生き残っていたため、騎士たちにとって土地よりも金銭の方に魅力があったことや、都市の発達や自営農民のためにみずから武器を持って戦うことが多かったためである註123-4

(2) 中世農業革命註123-5

農業革命前のヨーロッパ農業

農業革命前のヨーロッパにおいて、農業の主体は牧畜だった。ヨーロッパの気候は牧草が育ちやすく、空き地に家畜を放牧しておけば、家畜は勝手に育った。麦など穀類の生産は手間がかかる割に生産性が悪く、農民たちの常食は麦粉を牛乳や山羊乳などに煮込んだオートミールのような流動物であり、領主が農民から収奪できる農産物は限られていた。

農業生産力の増強

軍事力を背景にした封建制により治安が回復してくる10世紀後半から11,12世紀にかけて、農具の進歩や農法の改善により農業生産力は急激に上昇した。

農具では、撥土板※6を備えた鉄製のスキが開発されたことにより、新たな農地の開墾が進み、畑の生産力も改善された。

また、それまでは連作障害を避けるために耕地を移動したり、2,3年もしくはそれ以上休耕させていたが、種類の違う麦であれば2年連作が可能なことを利用した三圃(さんぽ)制農法が普及した。三圃制農法では、土地を3つの耕地に分割し、それぞれの耕地を秋蒔き(小麦やライ麦) →春蒔き(大麦やカラス麦) →休耕(放牧地)というように輪作していくもので、農地の生産性向上に寄与した。

こうした改良により、麦類の生産量は従来の2倍から3倍になり、人口も大幅に増加した。

※6 撥土板(はつどばん)  種まきや苗の植え付けに備えて土壌を耕起する農具である犂(すき 英語ではプラウPlough/Plow)の部品のひとつで、土を掘り起こしたり破砕したりする板。

農業革命の成果

農業革命の成果の第1点は、農村共同体の成立である。三圃制農法は農家1軒が単独で行うより、耕地を集約し共同で行った方がより効率的なので、農民は集落を作るようになった。封建領主にとっても共同体の方が支配しやすく、広い地域を支配できるようになった。

2点目は商工業の発達である。農業生産の改善により穀物などの農産物に余剰ができ、それが商品として流通するようになる。余剰農産物をかついで売り歩く行商が、城砦、村落、修道院、船着き場などの近くに集落をつくり、都市を形成していった。都市にはパン屋や商店、旅館などができ、製鉄業や鍛冶屋、毛織物などの手工業も発展した。領主も農村から都市に移動し、都市は城壁や堀を備えた要塞と化した。

(3) 14世紀の危機

絶好調だった経済は、14世紀に入ると一転して危機的状況に陥る。その要因は、農業生産の行き詰まり、戦争による荒廃、そしてペストによる大幅な人口減、の3点である。

農業生産の行き詰まり註123-6

生産力が低下した理由のひとつは、農業革命期に造成された耕地の一部が3年に1回程度の休耕では地力を回復できなくなったことにある。そのためにあちこちで廃村が続出した。もうひとつは、新たな農地の開墾が止まったことである。すでにガリア地域においては、開墾できるところはしつくしており、可能性があったのはエルベ川以東(ドイツ東部)などに限られているが、それらの地域でも人口減や寒冷地栽培の生産性の悪さなどにより開墾は進まなかった。

戦争による荒廃註123-7

1337年から1453年までイギリスとフランスのあいだで戦われた百年戦争は、戦場となったフランスだけでなくヨーロッパ全体を荒廃させた。(百年戦争の詳細は1.3.3項を参照) 百年戦争はそれまでの封建騎士による戦争ではなく傭兵(ようへい)による戦争だった。傭兵たちは経済不況下で失職した騎士や民衆、外国からの戦士など野武士のような連中で、「騎士道精神」などは通用しない。百年戦争は途中に何回もの休戦期間があったが、休戦になって収入を失った傭兵たちはヨーロッパのあちこちで掠奪を行った。

ペスト(黒死病)の猛威註123-8

1331年に中国で発生し猛威をふるったペストは、貿易ルートに沿って、ヨーロッパに伝染した。1346年にクリミア半島南岸、1348年には地中海沿岸に達し、以降北上を続けて15世紀初頭までヨーロッパ全域で猛威をふるった。インフルエンザと同じような感染力をもちながら、致死率は高く、フランスでは人口の3分の1、イギリスでは5分の1が死亡したといわれている。

 図表1.15 ヨーロッパの人口推移(推定)

ヨーロッパの人口推移

出典)Wikipedia「歴史上の推定地域人口」、「近代以前の日本の人口統計」
 前者は、Biraben(1980年)、後者はBiraben1993,2005年)による。

(4) 危機の帰結註123-9

14世紀の危機で最大の打撃を受けたのは領主層である。人口減少と農村の荒廃により収入源がくずされたばかりでなく、戦争で家系が断絶したり莫大な身代金を負担することが少なくなかった。負担を転嫁された農民は反抗し、大規模な農民反乱がフランスやイギリスで起こった。

フランスやイングランド、スペインの王たちは、破綻した領主領を王の直轄領地として吸い上げるとともに、消費税、関税などの税金を徴収して王室の財政基盤を強化し、いわゆる絶対王政※7へと移行していく。イギリスでは、ノルマン征服王朝が11世紀に領邦君主領を解体し地方自治が機能していたのに対して、フランスではそれが成熟せず、スペインではカスティーリャ王国とアラゴン連合王国との統合に手間だった。さらに、ドイツでは、王が世襲でなく選挙で選ばれる慣例のために強固な王直轄領を持つことができず、諸侯がそれぞれ独立した王国となる領邦国家※8とよばれる体制に変わっていく。

{ 十字軍時代までのヨーロッパには、ヨーロッパ人という意識はあっても、国家は影の薄い存在だった。 ところが、14,15世紀の苦難を越えたヨーロッパでは、国家のわくが強くなり、ヨーロッパ意識にプラス・アルファの形で、フランス意識、イギリス意識、ドイツ意識などが幅をきかせはじめた。}(鯖田「世界の歴史9 ヨーロッパ中世」,Ps4426-<要約>)

※7 絶対王政 封建制国家から近代国家への過渡期にヨーロッパにあらわれた政治形態。国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を支柱とし,弱体化した貴族階級と市民階級とを押さえ,無制約の権力を振るった。(コトバンク〔百科事典マイペディア〕)

※8 領邦国家 中世末期から近世にかけて、神聖ローマ帝国を構成した小国家群。皇帝権の弱体化に伴って諸侯が事実上独立して形成し、その数は300余に及んだ。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)


1.2.3項の主要参考文献

1.2.3項の註釈

註123-1 ヨーロッパ封建制の起源

柴田「フランス史10講」,P27-P29

註123-2 日本の封建制

戦国時代までは、ヨーロッパほどではないにしろ、双務契約的な要素が強く、場合によっては主君を変えることもあった。しかし、江戸時代になると、「2君にまみえず」というルールができ、主君からの「御恩」の有無にかかわらず、ひたすら同じ主君に仕えるようになった。(Wikipedia「封建制」)

註123-3 ドライな封建制

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1405-

註123-4 封建制の地域性

M・ハワード「ヨーロッパ史における戦争,P25-P29

註123-5 中世農業革命

革命以前のヨーロッパ農業; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1215-

農業生産力の増強; 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps1222- 柴田「フランス史10講」,P27-P29

農業革命の成果; 柴田「フランス史10講」,P35-P39 鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps2506-

{ パリの発展は12世紀からはじまる。その理由はパリ盆地がフランス随一の穀物生産地域となったことのほかに、この当時の西欧経済の南北2極、つまり北イタリア諸都市とフランドル地方とを定期市で結ぶシャンパーニュの諸都市と、セーヌ川の水路を通じて直結していたからであった。}(柴田「フランス史10講」,P39)

※フランドル地方; オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域

※シャンパーニュ; フランドル地方の東、フランス北部の地域。発泡性性ワイン(=シャンパン)の産地。

註123-6 農業生産の落ち込み

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps4128- W・H・マクニール「戦争の世界史(上)」,P139

註123-7 戦争による荒廃

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps4249-

註123-8 ペストの脅威

鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps4263-  Wikipedia「ペスト」

{ ペストには、腺ペストと肺ペストがあり、腺ペストはリンパ腺が腫れあがり2~3日後には意識不明のうちに死亡する。肺ペストは肺に侵入し、呼吸困難になって急速に心臓が衰弱し、早ければ24時間以内に死亡する。腺ペストはネズミを媒介にして接触感染するが、肺ペストは患者の咳や痰の飛沫から感染するもので、感染力が強い。ヨーロッパで猛威をふるったのは主として肺ペストである。}(鯖田「… ヨーロッパ中世」,Ps4263-<要約>)

肺ペストについて、鯖田氏は「ほぼ100%の死亡率を発揮する」と言うが、Wikipediaでは「放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、治療を試みたとしても … 致命率は30%から60%に及んだ」,「WHOによれば2004-15年の感染者数は56,734名、死亡者数は4,651名(死亡率8.2%)であった」。

註123-9 危機の帰結

柴田「フランス史10講」,P56-P65 立石他「スペインの歴史を知るための50章」,P92-

以下、各国の絶対王政関連の主要部分だけを要約引用する。

{ 【フランスでは】領邦君主領にはローカルな慣習法が深く根を下ろし、王が領邦君主領を併合したときに中央から派遣した役人と地方勢力は強い緊張関係をもった。
イングランドは、ノルマン征服王朝が領邦君主領を解体し、司法、課税権は一手に王に集中させた。地方における代理人は土着勢力としての独立性を帯びるが、王政の枠組み内にとどまる。イングランドは、統一国家の成立と地方自治システムがバランスを保って進行した。
東フランクでは、伯が封でなく官職の保持者であるとの観念と王が世襲でなく選挙で選ばれる慣例が続いた。そのため、伯領が自立してくるとそれぞれが王国として自立した。}(柴田「フランス史10講」,P64-P65<要約>)

{ カスティーリャ王国とアラゴン連合王国の同君連合が始まったものの、あくまでも婚姻という王家の人格的な結びつきによるものにすぎず、両国はそれぞれの政体を保ったままだった。}(立石他「スペインの歴史を知るための50章」,P100)