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長崎発”元和の大殉教”@西坂の丘を知っていますか?

  • 2022年10月05日

”元和の大殉教”を知っていますか?

2020年春、新社会人の私はNHK長崎放送局への配属を命じられました。

「長崎には原爆や離島などいろんな取材テーマがあるよ」
研修講師からの言葉です。

でも、私の心に浮かんでいたのは長崎=「二十六聖人の殉教」でした。
私は父親が教会の牧師で幼い頃から教会に通うクリスチャンだからです。
「二十六聖人の殉教」は1597年、豊臣秀吉の時代に26人のキリシタンが磔にされた、日本で最初のキリスト教徒への大規模な迫害です。

いざ長崎局に着任して本当にびっくりしました。
「二十六聖人の殉教」が起きた場所=「西坂の丘」は長崎放送局のすぐ裏手だったからです。

左の建物がNHK長崎放送局 右の斜面の上が西坂の丘

NHK長崎放送局の住所は長崎市西坂町1-1です。
不思議なめぐりあわせを感じました。

長崎版ゴルゴタの丘=西坂の丘

イエス・キリストが磔にされた「ゴルゴタの丘」は中東のエルサレムにありますが、「西坂の丘」はゴルゴタの丘に似ていることから殉教したキリシタンたちはこの丘での処刑を願い出たとも言われています。

そして、社会人3年目の2022年。
9月10日に西坂の丘(現在の西坂公園)で開催される「元和(げんな)の大殉教」から400年の記念式典を取材するよう命じられました。

ゲンナの大殉教???

なにも分からず、、クリスチャンなだけに悔しさはひとしおです。ゼロから取材スタートです。クリスチャンの皆さん、歴史好きの皆さん、西坂の丘で起きた”もう1つの殉教”「元和の大殉教」を知っていますか。

(NHK長崎放送局 記者 中尾光)

焼け焦げた竹は”火あぶりの刑”!?

9月10日、厳しい残暑のなか、「元和の大殉教から400年」の式典が西坂の丘で厳粛に執り行われました。主催はカトリック長崎大司教区です。式典会場には処刑された55人の殉教者に見立てた、55本の竹が掲げられました。でも、よく見ると竹は1本1本見た目が違います。
なぜでしょうか。

主催する大司教区の広報に聞いたところ、名前の板が焼け焦げている竹は火あぶりの刑にされたとされる人。先端が鋭くカットされている竹は斬首されたとされる人でした。

火あぶりの刑にされた人を表現した竹
斬首された人を表現した竹

「ずいぶんとストレートな表現方法だな」と思いましたが、インパクトがあり、分かりやすいなとも感じました。

元和の大殉教を描いた画

1622年=元和8年、徳川幕府の命令で長崎のキリシタンたち、そしてヨーロッパの宣教師たち、あわせて55人が処刑されました。女性や3歳や4歳の子どもたちも含まれていたとされます。式典では「二十六聖人記念館」の前館長で、イエズス会の日本管区長のレンゾ・デ・ルカ氏が式典の意義について語りました。

イエズス会 レンゾ・デ・ルカ 日本管区長

イエズス会 レンゾ・デ・ルカ 日本管区長 
「殉教した人たちはなぜ信仰だけで迫害されるか説明がないまま命を捧げましたが、現代でも説明のつかない、戦争や暴力が続いています。私たちは殉教した人たちを思い出して、共に歩んでいきましょう」

続いて参加した約260人のキリスト教徒たちが、殉教者に見立てた竹や十字架を掲げて祈りを捧げながら長崎の街を練り歩きました。30分ほどの式典でしたが、クリスチャンの私には圧巻の内容で、取材者の立場を忘れそうになりました。

もっと知りたい。深掘り取材のスタートです。

“小ローマ”と呼ばれた長崎

まずは、長崎のキリスト教の歴史に詳しい専門家の本馬貞夫さんを訪ねました。本馬さんは高校の教諭を経て長崎県立図書館の副館長を務めた長崎の歴史を知り尽くした人物です。

長崎のキリスト教史に詳しい 本馬貞夫さん
「長崎でキリスト教が最も勢いがあったのは、1597年に起きた『二十六聖人の殉教』の後から江戸時代初期にかけた約10年間です。この時代の長崎は“小ローマ”と呼ばれていたんです

長崎が「小ローマ」!
新鮮な響きでした。
私はこれまで1597年の「二十六聖人の殉教」をきっかけにキリシタンへの弾圧が激しくなっていったのだと誤って理解していました。

しかし、実際は「二十六聖人の殉教」の後に長崎の街はキリスト教が最も栄える時代を迎え、“小ローマ”と言われるほど教会が建ち並んでいたのです。
本間さんの説明は続きます。

南蛮人来朝図(長崎歴史文化博物館蔵)

1571年、元和の大殉教が起きる51年前、長崎の港は開港し、カトリック教国のポルトガルやスペインの船が多数寄港し、長崎の街は活気を帯びます。

国の実権を豊臣氏から奪った徳川家康は長崎貿易から生まれる利益を重視していました。なかでもポルトガル船が持ってくる生糸は珍重されていました。本間氏は当時の徳川幕府はカトリック教国との貿易を重視していたため宣教師などによるキリスト教の布教に寛容な姿勢を示し、その結果、長崎=「小ローマ」になったと指摘します。

教会の井戸が“外道井”に

しかし、1622年に起きた「元和の大殉教」の時期を境に、小ローマの街並みは一変します。

本間氏から当時の長崎の街の変化がうかがえる場所が現存するので自分の目で確かめたほうがよいとアドバイスされ、私は向かいました。

訪れたのは江戸時代後半、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの邸宅があった場所にほど近い、長崎市の春徳寺です。

春徳寺は「トードス・オス・サントス教会」という教会が取り壊され、その跡地に建てられました。寺の前には教会跡地であることを示す石柱が立っていました。

境内にもキリシタンの足跡が残されていました。
“外道井”(げどうい)と書かれた石柱が横に立つ井戸です。「穏便ではないネーミングだな」と思いつつ住職に”名前の由来を尋ねてみました。

春徳寺 平野和紀 住職
「キリスト教は日本に元々あった宗教ではなく外国から入ってきたため当時の人は『外道』と呼んでいました。その『外道』を信じる人たちが使っていたので “外道井”と呼ばれました」

なるほど。クリスチャンの立場からはネーミングへの違和感はぬぐい切れませんが、当時の雰囲気が伝わってきます。住職によると、春徳寺を訪れる人のうち”外道井”や教会跡を見学するために来る人がお寺の参拝者よりも多いそうです。

豊臣方のキリシタンを危険視

「小ローマ」の町並みを消滅させた「元和の大殉教」はなぜ起きたのでしょうか。

諸説あるようですが、本馬氏は徳川幕府と敵対する豊臣秀頼の拠点・大阪城に関係すると指摘します。

本馬貞夫氏
「大阪城に集まった浪人の中には多数のキリシタンがいた。大阪方はキリシタン浪士たちに自分たちが力を盛り返せばキリスト教を容認するといったことを言っていました」

徳川幕府はライバルの豊臣方とキリシタンとの結びつきを危険視し、それまでのキリスト教への寛容な方針を転換し、キリシタン弾圧に舵を切ったと分析します。

本馬貞夫氏
「徳川政権も新たに日本のキリスト教勢力に大規模な圧力で押さえつけ、その結果、元和の大殉教が起きたのです。『元和の大殉教』はキリシタン迫害が今後、強まることを長崎の住民に知らしめ、実際に数年後からは住民への圧力が強まっていきました」

元和の大殉教を契機に、幕府によるキリシタン弾圧はエスカレートしていきます。

キリシタンの怒りは大殉教から15年後の1937年に爆発します。日本史上最大級の一揆とされる島原・天草一揆です。

徳川幕府は大規模な兵力を送り込んで徹底的に武力で鎮圧しました。そして禁教令や鎖国政策に踏み切り、日本のキリスト教は長い潜伏時代に入りました。

ヨーロッパ世界にも衝撃

「元和の大殉教」はヨーロッパ世界にも大きな衝撃を与えていました。イエズス会の日本管区長のレンゾ・デ・ルカ氏は大殉教の直後、メキシコやスペインで出回ったカトリックの出版物のコピーを見せてくれました。

メキシコ国内で出回った出版物のコピー

出版物には長崎で元和の大殉教の出来事が起き殉教した人々の記されています。

出版物の中にはNangafaqui(長崎)の記載が
19世紀後半 フランスで描かれた「元和の大殉教」

19世紀後半には、フランスで元和の大殉教をテーマにした西洋画が描かれました。この絵は現在、長崎市の大浦天主堂に併設された博物館には展示されています。

記憶は受け継がれ、400年の式典にはイタリア・ルッカからカトリックの大司教が来日して参加しました。

イタリア・ルッカ大司教区
パオロ・ジュリエッティ 大司教
「多くの問題に直面し、人生を犠牲にしていた殉教者が いたことを覚えておくことは非常に重要で長崎で聞いたことをイタリアのルッカの人たちに語っていきたい」。

イエズス会 レンゾ・デ・ルカ 日本管区長
「55人もの人が一緒に殉教したということはスケールが大きく、大きなインパクトがありました。日本人のキリスト教信仰の深さを世界に知らせる役割を果たしたとも思います」

なぜ『二十六聖人の殉教』より知名度が低いのか

日本だけでなく、世界のキリスト教に大きな影響を与えた「元和の大殉教」。私はクリスチャンとして同じ西坂の丘で起きた「二十六聖人の殉教」は知っていましたが、「元和の大殉教」は全く知りませんでした。

なぜ「元和の大殉教」の知名度は低いのでしょうか。

レンゾ氏は、2つの理由を挙げます。

イエズス会 レンゾ・デ・ルカ 日本管区長
「『二十六聖人の殉教』は日本で初めの大規模な殉教でした。このため殉教によって『日本のキリスト教が一人前になった』というという見方があります。また『二十六聖人の殉教』は調査して記録する時間的な余裕がありました。一方、元和の大殉教が起きた時期は弾圧が激しくなっていたため、調査したり、記録に残したりする余裕がありませんでした」

レンゾ氏は「二十六聖人の殉教」がよく知られる一方で、「元和の大殉教」の知名度が低い理由は「二十六聖人の殉教」は日本初の大規模な殉教としてクローズアップされていること。もうひとつは「元和の大殉教」の方はキリシタンへの厳しい弾圧のなかで起きたため当時の文献史料が乏しいことを理由に挙げていました。

日本史の転換点となりヨーロッパに大きな衝撃を与えた元和の大殉教。400年の節目に多くの人に知って欲しいと本間氏は言います。

本馬貞夫氏
「ヨーロッパにも衝撃を与えた55人の大殉教を改めてここで長崎の人、あるいは日本のキリスト教史に興味がある人に知ってもらう意義はあると思います」

取材後記

何1つ知らずに始まった「元和の大殉教」取材。
取材を通して、歴史上、重要な出来事であってもさまざまな要因で注目度が低いものもあることを学びました。今回の取材をきっかけに長崎の街を歩いていると様々な史跡が気になるようになりました。これまで大切な史跡を素通りし、見過ごしてきたのかも知れない。

これからは、歴史の宝庫・長崎で”知られざる歴史”にしっかり光を当てていきたいと思います。

  • 中尾光

    長崎放送局 記者

    中尾光

    令和2年入局
    経済・文化担当
     父親はプロテスタントの牧師
    10歳で洗礼を受ける
    名前(光)は聖書の言葉から

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