イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
イラストはデジタル・グラフィックスセンター 高橋佐紀
山口照さん(左上)が10歳ごろに東京の自宅で撮影した写真(山口さん提供)
山口照さん(左上)が10歳ごろに東京の自宅で撮影した写真(山口さん提供)
山口照さんが卒業した東京・深川の川南国民学校でのなぎなた訓練の様子(卒業アルバムのコピーから、山口さん提供)
山口照さんが卒業した東京・深川の川南国民学校でのなぎなた訓練の様子(卒業アルバムのコピーから、山口さん提供)

 東京生まれの少女にとって雪深い田舎暮らしは苦労の連続で、毎日が必死だった。「同じように疎開した子と励まし合っていた」。新潟県小千谷市の山口照(てる)さん(91)は東京・深川から、母の実家のある千田(ちだ)村(現小千谷市)に疎開した13歳の頃を思い返す。

 東京では両親と2人の姉、弟と暮らしていた。体を動かすことが好きで「陸上の選手だったんだよ」と笑顔を見せる。リレーや走り幅跳びが得意だった。

 今の小学校に当たる国民学校4年の時に太平洋戦争が開戦。学校生活にも影響を及ぼし修学旅行がなくなった。「伊勢や奈良に行くのを楽しみにしていたのに」と声を落とす。

 東京で空襲が続くようになった1944年12月に疎開した。両親と離れたことがつらかった。さみしさを甘い物で紛らわそうと、つるされていた干し柿をかじった。でも涙は止まらなかった。祖父や叔父はそっとしておいてくれた。

 学校では疎開の子どもが何人もいた。東京・向島から来た子と特に気が合い、よく一緒に遊んだ。連絡を取り合い「今でも仲良くしている」と目尻を下げる。

 疎開してすぐの冬は記録的な豪雪だった。学校の屋根の雪下ろしもした。高いところは怖くなかったが、スコップの扱いに苦労した。「まねてはみたが、ほとんどできていなかった」と話す。

 45年3月10日東京大空襲は忘れられない。実家は焼け、一番上の姉が亡くなった。防空壕(ごう)の中の暑さに耐えきれず、飛び出してしまい犠牲になった。空襲の後、千田村で家族と再会した。「みんなすすだらけの顔だった」。両親が生きていたことに胸をなで下ろした。

 終戦は学徒動員先の工場で知った。帰り道に見た夕日の美しさが忘れられない。それまで夕日を見る余裕がなかったことに気付いた。「負けたからうれしくはないけど、ほっとした」

(報道部・小柳香葉子)

◆[あの頃の空気と今]ウクライナの避難民は1000万人超

 太平洋戦争中、空襲の被害を避けるため、都市部から地方の農村などに避難する疎開が行われた。親戚を頼る縁故疎開のほか、国民学校初等科3〜6年生を対象にした学校単位の集団疎開が1944年夏ごろから始まった。県教育百年史によると、新潟県は集団疎開で東京都から1万8683人の受け入れ要請があった。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ロシアが軍事侵攻した2月24日以降にウクライナから国境を越え避難した人は1千万人以上。出入国在留管理庁によると、日本には8月8日時点で1705人が避難してきた。受け入れた各自治体は支援金や住宅の提供などで支援する。

 新潟県によると、ウクライナから県内には新潟市と小千谷市、三条市に計8人が避難している。

◆[わたしもすずさん]宮昭一さん(89)=十日町市=
「にぎりまんま」食べた疎開児童、空襲の安否は…?

 1944年夏、国民学校6年の時、東京・葛飾から集団疎開の子どもがやってきました。自分の組にも6、7人の仲間が増え、そのうち2人と仲良くなりました。家に呼び、母の留守中に大きな「にぎりまんま」を作って一緒に食べたのが思い出です。

 3学期の途中で、中学受験のために東京に帰った仲間がいました。その後に東京大空襲があり、生き残れたか心配でしたが確認する手段はありませんでした。

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 太平洋戦争の終戦からことしで77年。戦中戦後の厳しい時代の青春やおしゃれ、食べ物の思い出…。「#あちこちのすずさん」では、読者から寄せられた当時の暮らしのエピソードを紹介します。

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