特急とき
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荻川-亀田間を走る試運転列車
デビューをひと月後に控えた1962年5月10日、県内に姿を見せた特急「とき」の試運転列車。東海道線を走る「こだま」と同じ外観ながら、上越国境の山岳地帯を通過するために、「こだま」にはない強力な駆動装置とブレーキを備えた「161系」が導入された。ボンネット鼻先の赤いラインも「こだま」にはないもので、吹雪の中でも容易に識別できるように引かれた「警戒マーク」という。荻川-亀田間の直線コースでは時速95キロで快走。越後平野を駆け抜けるクリーム色と赤色のツートンカラーが鮮烈である。沿線にはカメラを構える人の姿も見える。
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新潟駅の出発式は大変な人出に
戦後間もなく上野-長岡間は電化されたが、長岡-新潟間は非電化区間だった。1962年6月10日、沿線の念願がかなって全線電化が実現する。これに合わせて登場したのが特急「とき」である。上野まで4時間40分。東京は「日帰り」可能な距離となった。この電化では、急行「弥彦」も登場したほか、新潟-長岡間に近距離旅客電車の運行が始まった。「とき」出発式が行われた新潟駅のホームには、8ミリカメラを持った市民ら約500人が詰めかけ、「新潟駅始まって以来の人出を記録した」と、当時の本紙が伝えている。
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上越線では戦後初となる食堂車
特急「とき」は当初、1編成のみだった。東京日帰りを可能にするため、新潟発は午前8時半に設定された。おなかがすくのは上越国境を越えたあたりである。食堂車の利用者は、水上-高崎間が多かったという。当時の本紙によると、メニューの中で一番高いものが750円。定食は200円以下だった。料理の提供は「大日本食堂」(当時)。平均的な客単価は、500円ほどの食事にビールを飲んで合計1000円前後だった。食堂車の給仕にチップを渡す客がいた時代で、「とき」デビューに際しては、「列車給仕がノーチップを決議した」と記事にある。
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デビューして、初めて迎えた冬
前年の1962年6月にデビューした特急「とき」は初めての冬を迎えた。写真は六日町付近。雪化粧した山を背景に快走する姿は美しいが、雪が本格化すると、豪雪地帯ならではの試練が待ち受けていた=1963年1月
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雪まみれで新潟駅にたどり着く
1963年1月23日夜から中下越地方は猛吹雪に襲われた。国鉄新潟支社管内のダイヤはずたずたとなり、約150本の列車が運休や運転打ち切りとなった。車内や駅の待合室で一夜を明かした乗客は約1万人に上った。写真は24日午後6時すぎに大幅遅れで新潟駅に到着した特急「とき」。当時の本紙に乗客のコメントが載っている。「あの猛吹雪ではね、国鉄に文句をいったってしようがない」
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38豪雪の試練をくぐり抜けて
1963年は昭和38年。いわゆる「38(さんぱち)豪雪」の年である。1月24日から運休していた特急「とき」が運転を再開したのは2月18日。新潟発午前8時30分。本紙夕刊は、この時の様子を次のように伝えている。「乗客は160人。車券の発売が3日間しかなかったので、いつもよりちょっと少ない。それでも乗る人、送る人、見守る駅員みんな『アア、これでよかった』といったはればれした表情。運休の間を他の作業をやらされていた運転士も『ええ、やっぱりこの方がいいですね』と車体をなでる」。写真は長岡市宮内付近
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新潟地震から1年後。とき快走
新潟地震から1年を経た1965年6月15日付け新潟日報の特集紙面に掲載された特急「とき」。新潟駅東跨線橋付近を走っている。当時の紙面を見ると、震災によって新潟駅、白山駅をはじめ国鉄の施設は大規模に損壊したが、復旧は旧ピッチで進められた。特に新潟支社の中枢である新潟駅は、1番線から7番線までの4本のホームが、地震発生の年の12月までに復旧したと書かれている。「とき」とすれ違う客車が時代を物語る。
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雪との闘いは宿命か。とき奮闘
1966年1月17日からの寒波で、上り特急「第一とき」は19日午前9時40分ごろ、上越線の五日町-六日町間で電源故障のために立ち往生。石打から機関車が救援に向かった。翌20日付け本紙によれば、羽越線も大幅にダイヤが乱れ、上り特急「白鳥」が2時間遅れたほか、上り急行「しらゆき」、同「鳥海」、下り急行「しらゆき」などが1時間から2時間遅れたなどと報じられている。雪国の鉄道を支える苦労は昔も今も変わらない。
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上越線が複線化。とき突っ走る
「日本国有鉄道百年史」によると、上越線は日本海側と太平洋側を結ぶ重要な路線であったが、1931年の開通以来、全線が単線だったため、輸送量は限界に達していた。戦後、上越国境を挟んで群馬県側でも、新潟県側でも順次複線化が進められてきたが、最後に残ったのが水上-土樽間だった。下り専用の新清水トンネルが着工されたのは63年9月。4年の歳月を経て、67年9月28日に開通した。複線化の完了である。写真は開通直前のもの。ときが走行している側が清水トンネル、右奥が新清水トンネルと推定される。複線化によって、ときは大幅にスピードアップ。デビュー時に新潟-上野間4時間40分かかっていたものが、複線化によって3時間55分となった。ほかの急行も、5分から25分早くなった。
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ダイヤを改正し120キロ運転
1968年(昭和43年)10月1日のダイヤ改正は、「ヨンサントオ改正」と呼ばれる。国鉄始まって以来の大規模改正だった。写真は、新ダイヤがスタートした当日朝の新潟駅のひとこま。午前8時発の特急「とき」1号だ。この日から時速120キロで運転することがニュースの目玉となった。同日付けの新潟日報夕刊によると、空前の大改正に備えて、当時の国鉄新潟支社は総力を挙げた。前日の9月30日に「時刻改正推進対策本部」を設置。ふだんより34人多い職員が支社内で徹夜した。新ダイヤに戸惑った乗客があわててけがをしたときに備えて、新潟鉄道病院と、酒田、長岡、直江津、水上の各鉄道診療所には医師、看護師が待機した。列車運転の前線である新潟運転所では、日勤助役が平常より5人、当直助役も2人多い態勢を取った。
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ゆったり座席の「とき」だった
新潟日報(1969年2月16日付け)の、列車やバスの座席の「ゆったり度」を比べた記事で、一つの事例として「とき」のシートが紹介された。国鉄(当時)の「車両構造基準規定」によると、1人分の幅は43センチ以上と決まっていた。当時の国鉄新潟支社管内を走っていた列車は近距離用の二人がけが86.7センチ。中・長距離用が96.5センチ。いずれも基準を上回っている。前後の間隔は、普通二等車で、前後のいすの中心から中心まで1.46メートルが標準。「とき」はいすを向かい合わせにすると1.82メートルで、ゆったりしていた。ちなみに東海道新幹線は2.3メートルで、さらにゆとりがあった。
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速度を取るか。風情を選ぶか
信越線の北長岡-長岡間には、700メートルにわたって越後交通栃尾線(1975年廃線)と並走する区間があった。写真は、1969年3月4日の夕刊に掲載された連載「春とにらめっこ」(第4回)。記事は、越後交通の電車「102号」が独白するスタイルで、びゅんびゅんと走り抜ける「とき」に対して、「ヤツは4月から運賃を15%も上げるらしい」「特急野郎、新潟の若者をどんどん東京に送りこみやがって」と皮肉たっぷりだ。しめがいい。「もうすぐ春だ。悠久山の桜も田んぼの菜の花も一斉に咲く。のんびりと郊外を走るオレさまには楽しみも多いってものさ」。いま、高架の上を上越新幹線が疾走する。「とき」も「102号」も、伝説の中の存在だ。
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「揺れ」解消へ データを収集
特急「とき」が1962年に走り始めてから11年。運転本数は年々増えて13往復となった。車体の消耗が進んだのだろう。乗客から「揺れがひどく、食堂車の汁がこぼれる」「通路を歩きにくい」といった苦情が寄せられるようになった。新潟鉄道管理局は、台車の緩衝用ゴムを交換するなどの対策を取ったが、十分な成果は上がっていなかった。73年12月13日、国鉄本社が掲げる「旅客車の乗り心地向上策」の一環として、「とき」の試験列車を走らせ、振動を計測した。
試験列車には国鉄本社の技術開発室、工作局、首都圏本部、大阪吹田工場、北九州小倉工場などの専門家50人が乗り込み、新潟-上野間を一往復した。食堂車を含めて計8両の各車両に測定器を取り付け、車体の上下、左右、前後の揺れを記録した。 -
雪と振動対策へ 100両を修理
「雪に弱く、揺れがひどい」という苦情が耐えなかった「とき」の改良作業が本格化した。当時の新潟日報によると、対象となったのは全131両のうち8割に当たる約100両。その多くは製造されてから長い時を経ており、中には1958年に東海道線でデビューした特急「こだま」型の改造車両も含まれていた。雪対策が不十分だったうえ、老朽化もすすみ、74年には1月から3月にかけて故障が続出、運休も続いた。
改良作業は新津車両管理所(当時)で行われた。耐雪の改良ポイントは、車体下部にある機器のカバーを二重にしたり、鉄板を厚くしたりして雪への耐久力をアップ。モーターが雪氷で故障しないように自動排水弁も取り付けた。防振対策としては、摩耗した緩衝ゴムやコイルバネを交換した。
改良作業は1両当たり15日間の時間がかかった。塗装もやり直し、新車のような輝きを取り戻した。(写真は1974年9月4日、新津車両管理所で撮影) -
183系登場で食堂車廃止へ
「とき」の車両は161系、181系が担ってきたが、1974年12月28日に13往復のうち3往復で新型の183系が登場した。この車両には食堂車がなく、乗客の中からは「旅の楽しみがなくなる」との声も上がった。当時の国鉄は「輸送力増強」を掲げ、運転時間が3時間前後の列車については「食堂車廃止」の方針を出しており、翌75年10月にはさらに4編成が183系となった。(写真は1974年当時の「とき」食堂車の風景)。
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ニューフェース 183系が登場
「とき」を担ってきた161系、181系は老朽化が進んでいた。走行中の異常振動や、相次ぐ故障などで乗客の評判は悪い。1974年12月1日、次代を担う183系(12両、1編成)が新潟市石山の新潟鉄道管理局新潟運転所上沼垂新潟支所に到着した。
愛知県豊川市の日本車輌製造工場でつくられたもので、費用は12両で10億円。これまで弱点だったブレーキ装置がユニット化され、鉄板のボックスで覆われた。ヒーターを備え、厳冬期にも凍結しない。このほか自動給水装置、窓洗浄装置、行き先標示装置などを備えている。
普通席にもリクライニングシートが採用されるなど、乗り心地も向上した。当時の新潟日報の記事には「クーラーからの水滴漏れもなくなった」との記述がある。老朽化した旧型の状態が想像できる。
食堂車が廃止されたかわりに、グリーン車に車内販売ボックスが設けられた。 この183系は12月28日から運用が始まった。 -
老兵181系は次々解体される
お務めを終えた181系は、1975年夏から新潟市の新潟鉄工大山工場で解体が始まった。第1弾は1957、58年に製造された36両。東海道線で特急として活躍した後、上越線で走り続けてきた。
新津市(当時)の国鉄新潟車両管理所から大山工場に入ってきた車両は、バーナーで焼き切られる。解体された後の素材は、製鉄メーカーなどに搬出される。 -
国鉄の高木総裁 雪害視察で来訪
1977年の冬は雪害が続いた。国鉄の高木文雄総裁が現場視察と職員激励のために来県した。雪害視察で国鉄総裁が来県するのは、74年1月に藤井松太郎総裁(当時)以来のことだった。
高木総裁は2月12日、県庁や新潟市役所を回ったあと新潟鉄道管理局の現場長らと懇談。新潟運転所上沼垂支所に出向き、「とき」の修理作業を視察した。 -
旧小出町の踏切 通過する「とき」
1976年の写真。旧小出町(現在の魚沼市)の中原踏切で撮影された1枚。右上に架かる「新小出橋」の開通によって、「開かずの踏切」に困っていた町民の利便性は劇的に向上した。当時の記事によると、中原踏切を通過する列車は特急34本、急行16本、普通列車36本。これに加え、貨物列車、入れ替え列車もあり、上り下りを合わせると145本に達していた。遮断機が下りている時間は6時間20分で、一日の4分の1は「通れない」状態だったという。
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上野行き「とき」 発車間際の風景
1978年春、新潟駅のホームで撮影されたワンショット。駅弁を満載したワゴンの背後に見えるのは特急「とき」。行き先表示は「上野」である。当時の記事を読むと、「駅弁業界は、窓の開かない特急列車が増えるたびに打撃を受けた」とある。「とき」の乗客に弁当を売る場所は、写真のように乗車口の付近だった。
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「56豪雪」の冬 待機する「とき」
1981年は昭和56年。この冬の豪雪は「56豪雪」と呼ばれ、鉄道ダイヤは乱れに乱れた。1月14日付「新潟日報」朝刊1面トップの見出しは「上信越線 完全ストップ」。写真は、新潟市の車両基地で待機する特急「とき」。新旧の両タイプが併用されていたことが分かる。
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時代の香り漂う 車内販売の風景
1981年2月の特急「とき」車内の風景である。車内販売を担当する女性は2人体制。ワゴン上段の雑誌の表紙を見ると、「平凡パンチ」「週刊新潮」「女性セブン」などのタイトルが並ぶ。下段にはミカンらしきもの、缶ジュースがのぞいている。翌年には上越新幹線の開業が控えていた。「とき」で上野まで4時間以上かかっていた旅は、新幹線によって大宮まで2時間弱に短縮されることになる。のんびりと車内販売のワゴンで品選びする旅が、ちょっと懐かしい。
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20年の歴史に幕 さよなら「とき」
1962年から20年間にわたり走ってきた特急「とき」は82年11月14日、引退の日を迎えた。新潟駅では、上り最終「とき28号」が18時48分に上野に向けて出発。多くのファンが別れを惜しんだ。特急ときは62年6月10日に1日1往復でスタート。78年には14往復まで増え、20年間で7000万人を運んだ。
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上越線70周年で 「とき」復活運転
上越線開通70周年記念列車として、2001年10月14日「鉄道の日」に特急「とき」が復活運転した。復活運転は1997年にも行われており、この日が2回目。13日と14日の2日間、それぞれ1往復運行した。全席546の指定席は、1カ月前の発売開始1分半で売り切れ。引退から20年近くを経て、なお衰えぬ人気を物語る。