独占入手に成功した石原裕次郎の「手記」 死線さまよいながらスターが見た夢/下

昭和を代表する映画スター石原裕次郎さん。デビュー映画「太陽の季節」や「嵐を呼ぶ男」で時代の象徴となり、「黒部の太陽」「富士山頂」など骨太な作品を映画史に残した。テレビドラマでも「太陽にほえろ」「西部警察」で印象的な場面を描き続けた。そして誰もが忘れられないのは…。1981年(昭56)6月21日、入院中の東京・信濃町の慶応病院屋上で、ガウン姿の裕次郎さんがファンに手を振った。解離性大動脈瘤(りゅう)と闘った入院期間は同年春から夏の終わり。あまりに劇的な129日間を、日刊スポーツで振り返ります。全3回の下編。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

その他エンタメ

81年7月27日、入院中の石原裕次郎と担当医の1人内藤千秋さん(中央、当時29歳。白衣がカンフーの胴着に似ていると裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名される)。右はまき子夫人。内藤千秋さんはのち85年宇宙飛行士に選出、86年結婚後、向井千秋として94年スペースシャトル・コロンビア号で宇宙へ

81年7月27日、入院中の石原裕次郎と担当医の1人内藤千秋さん(中央、当時29歳。白衣がカンフーの胴着に似ていると裕次郎から「カンフー姉ちゃん」とあだ名される)。右はまき子夫人。内藤千秋さんはのち85年宇宙飛行士に選出、86年結婚後、向井千秋として94年スペースシャトル・コロンビア号で宇宙へ

ファンへの感謝 酒タバコ 今後の俳優業

成功率3%とも5%とも言われた解離性動脈瘤の手術から回復に向かった石原裕次郎さんは1981年(昭56)9月1日に退院して、東京・成城に新築したばかりの自宅に戻った。退院直前には記者会見も開いたが、日刊スポーツには3日間連続で独占手記を掲載。裕次郎さんの闘病秘話と決意がつづられた。

慶応病院の屋上で日光浴する石原裕次郎。胸には手術のあとが。右はそれを報じた81年7月11日付14面

慶応病院の屋上で日光浴する石原裕次郎。胸には手術のあとが。右はそれを報じた81年7月11日付14面

東京・信濃町の慶応病院の屋上から全国のファンに手を振った名場面から9日後の6月30日、裕次郎さんは特別個室から一般病室に移った。さらに10日後、屋上で上半身裸で日光浴する姿がフジテレビのワイドショー「3時のあなた」で放送された。日刊スポーツはこの模様を翌11日の紙面で紹介している。終始ご機嫌な様子で、カメラを向けられると「グロテスクだよ」と言って、手で隠していた胸の手術跡を覆うばんそうこうは長さ30センチに及んだ。フジのスタッフが張り込んで撮影したというスクープ映像だが、日刊スポーツのネガ庫にも当日、橘信男カメラマンが撮影した写真が残されていた。病院内にいたことをあえて伏せるような配慮があったようだ。

8月22日の検査にも問題なく、26日に退院の日程が発表された。前々日、慶応病院の1階ロビーで記者会見した。ジーンズに白シャツ姿、体重は入院前より7キロ減って73・8キロ。拍手で迎えられると「ヨッ!」と軽く頭を下げた。「長い入院生活でしたが…」の問いに「4カ月もの入院生活だったが、意外と短く感じた。長期の外国ロケに行って、そこでケガして家に帰るような感じだね」などと答えた。体調を考慮して10分ほどで終わった会見後、裕次郎さんの血圧は70-140。記事には「問題なしだった」との記述があった。

紙面には右サイドに白抜きで「独占手記」の見出しが。日刊スポーツは石原プロモーションの協力を得て、退院に合わせて手記を依頼していたのだった。裕次郎さんをインタビューする形で、映画担当のベテラン谷口源美記者がまとめたものを会見当日、退院前日、退院を報じる紙面に合わせて3回掲載したのだった。おそらく、他紙がじだんだを踏んだだろう手記「俺は生きた!!」の要旨を、原文に近い形で紹介する。

本文残り72% (3224文字/4470文字)

編集委員

久我悟Satoru Kuga

Okayama

1967年生まれ、岡山県出身。1990年入社。
整理部を経て93年秋から芸能記者、98年秋から野球記者に。西武、メジャーリーグ、高校野球などを取材して、2005年に球団1年目の楽天の97敗を見届けたのを最後に芸能デスクに。
静岡支局長、文化社会部長を務め、最近は中学硬式野球の特集ページを編集している。