<追悼>「行動する学者」五百旗頭真氏の軌跡

政治・外交

日本を代表する外交史家の五百旗頭真(いおきべ・まこと)さんが3月6日に急逝した。スケールの大きな学究活動をベースに、現実政治へのコミットをいとわない「行動する学者」だった。戦争の産物である「戦後日本」の意義と限界を冷静にとらえつつ、21世紀のあるべき針路を指し示し続けた。<文中敬称略>

学識の幅広さと表現力の豊かさ、柔和な人柄を知る誰ひとりとして、いささかも心の準備ができていなかった。学界と政界の両方で重きをなした五百旗頭真・神戸大名誉教授の旅立ちについてである。

3月6日午後2時半ごろ、神戸市の海岸沿いに建つ「人と防災未来センター」のオフィスに戻って来た五百旗頭は突然、「背中が痛い」と訴えてソファに倒れ込んだ。すぐに救急車で病院に運ばれたが、急性大動脈解離により午後4時51分に死去。享年80だった。

生来のがっしりした体躯に衰えは見られず、70代後半から始めた高齢者野球をこよなく愛していた。「どうです、これ」とうれしそうにラミネート加工されたユニフォーム姿の写真を取り出し、甲子園球場を借りてやった試合の様子だと、筆者が教えてもらったのは昨秋のことだ。

同じく神戸大教授を務めた父親譲りの敬虔(けいけん)なクリスチャンだった。東日本大震災の発災日である3月11日に、自宅のある兵庫県西宮市のカトリック夙川(しゅくがわ)教会で親族と限られた縁者だけの葬儀が営まれた。

阪神大震災(1995年)で自ら被災し、東日本大震災(2011年)では復興構想会議の議長、熊本県立大理事長時代に熊本地震(16年)に遭遇するなど、晩年は確かに震災との関わりが深かった。新聞各紙の訃報も、震災復興への献身的な活動に多くの紙面を割いていた。

ただし、五百旗頭の「本線」は、占領期を軸に戦後日本の成り立ちを実証的に解明し、歴史家としての知見を惜しみなく現代社会へ還元し続けたことにある。

2013年3月、五百旗頭の文化功労者選出を祝う会合があった。冒頭、戯曲家・評論家の山崎正和(20年8月死去、文化勲章受章者)が友人代表であいさつし、「研究者としての情熱と、公共の用に供する情熱の二つを併せ持っている」とたたえた。

実際に、五百旗頭は現実の政治と接点を持ち、何人かの首相の外交アドバイザーを担った。さらにバランスの取れたその歴史観は、上皇陛下ご夫妻および天皇陛下ご夫妻との2代にわたる交流の源になった。

小渕政権「21世紀」懇から小泉、安倍政権まで

中央政界でその存在が広く知られるようになったのは、世紀末の1999年3月、当時の小渕恵三首相が16人(後に49人に拡大)の有識者を選んで「21世紀日本の構想」という大がかりな懇談会を設けたころからだろう。四半世紀が過ぎた今でも各界で活躍する人物をそろえたこの知的集合体で、五百旗頭は第1分科会「世界に生きる日本」の座長を務めた。

「21世紀日本の構想」第1分科会の初会合であいさつする五百旗頭真座長(左から2人目)=1999年5月27日、東京・首相官邸(時事)
「21世紀日本の構想」第1分科会の初会合であいさつする五百旗頭真座長(左から2人目)=1999年5月27日、東京・首相官邸(時事)

ちなみに、この時の縁で五百旗頭は、小渕が書き残した日記の扱いについて、小渕の娘である小渕優子・自民党選対委員長から相談を受けている。

小泉純一郎政権時代の2003年5月には、小泉の靖国神社参拝で冷え込んだ日中関係を立て直す両政府の諮問機関として「新日中友好21世紀委員会」が設立され、五百旗頭は日本側委員8人の1人になった。

小泉の靖国参拝には一貫して批判的だった。小泉政権が踏み切った自衛隊のイラク派遣にも異を唱えてきた。それでも小泉は政権末期の06年に第8代防衛大学校長への就任を要請し、実現させた。

五百旗頭は受諾した直後の会合で、「さんざん批判した私を学校長に招くなんて、小泉総理は変態かと思った」とユーモラスに話している。その小泉は先の文化功労賞祝賀会に駆けつけて「私は総理に就任する前から先生の著書を読んで感銘を受けていた。先生は表面は穏やかだが、侠気(おとこぎ)のある方、熱血漢だ」と語った。

歴代首相で最右派に属する安倍晋三首相とも接点があった。15年8月に出す予定の戦後70年首相談話で、村山富市首相談話(1995年)の対アジア宥和史観を封じ込めたかった安倍は、前年から複数回、五百旗頭を含む学者グループをひそかに公邸に招いて意見を求めた。

五百旗頭は、(1)戦後日本の平和的発展、経済重視路線を否定したら国際社会への挑戦になる(2)先の大戦に向かう時代を美化したら国際的なリーダーと認められなくなる(3)日本がアジアのリーダーと認められることが日米同盟の価値を上げる--と三段論法で国粋主義に傾きがちな発想をいさめたという。極東の島国・日本が生きる道は「日米同盟プラス日中協商」という信念が背景にある。

独りよがりの偏狭な歴史認識には厳しかった。麻生太郎政権時代の2008年10月、航空自衛隊トップの田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長が根拠のない陰謀史観の論文を発表した時には、毎日新聞のコラム「時代の風」で田母神を「今なお誤りを誤りと認めることができずに精神の変調を引きずる人」と容赦なく批判した。

田母神論文は「わが国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「日米戦争はルーズベルトによる策略だった」などと非常識な記述に満ちていたから、当然ではある。ただし、五百旗頭は当時、現職の防大校長であったため、田母神を支持するグループが防衛省前で声高に五百旗頭の「罷免」を求めたり、西宮市の五百旗頭宅を襲撃したりした。後の安倍政権で増長する極右の走りだった。

楠田実が取り持った福田・五百旗頭の相互信頼

政治家との関係で特筆すべきは、福田康夫元首相との親交だ。福田は首相時代に不祥事続きだった防衛省改革案の実質的な取りまとめを五百旗頭に託し、外交政策勉強会の座長にも就いてもらっている。

2人をつないだのは、佐藤栄作政権で首相の筆頭秘書官を務めた楠田実(2003年9月死去)だ。楠田は佐藤の周りに多様な学者を集めて非公式の勉強会を持った。梅棹忠夫や高坂正堯、山崎正和、江藤淳、京極純一らが出入りしていた勉強会は、後の福田赳夫政権でも形を変えて続き、やがて五百旗頭にも声がかかるようになる。こうして息子の康夫と五百旗頭には自然と接点が生まれた。

特に小泉政権で官房長官の福田が田中真紀子外相による暴走を防ぐため外交実務を担うようになると、楠田は福田を囲む学者の会を設け、五百旗頭を主要メンバーに選んだ。以降、2人は相互に信頼を深めていく。

五百旗頭が2019年に日経新聞に連載した「私の履歴書」での福田評がそれをよく表している。「人格識見に優れ、とりわけ外交には知識と情熱を持ち合わせた福田首相であったが、ねじれ国会下の内政に苦しみ、1年で降板したのは誠にもったいないことであった」

福田は国会議員を退いてからも、揺れ動く日中関係のキーマンであり続けた。中国外交トップの王毅政治局委員は福田が訪中すると必ず接触し、習近平国家主席も幾度となく福田と会っている。五百旗頭は福田が「南京大虐殺記念館」を訪れた18年6月と、「評伝 福田赳夫」(21年出版、監修・五百旗頭)の中国語版出版記念会で北京に招かれた23年10月に、それぞれ同行して福田を支えた。

「評伝 福田赳夫」の中国語版出版記念会に出席した福田康夫(中央)と五百旗頭=2023年10月24日
「評伝 福田赳夫」の中国語版出版記念会に出席した福田康夫(中央)と五百旗頭=2023年10月24日

福田も五百旗頭が上京するたびに個人事務所に招いた。福田は「彼の話すことは現実的で、基本的に信用できると思ってきた」と振り返る。

ただ、安定的な日中を希求してきた五百旗頭も、習近平が登場して以降の中国には幻滅を覚えていた。昨年11月発行の雑誌「アステイオン」の連載論文で、現代中国の「対外政策における独善性」と、個人を徹底して抑圧する「党権力の絶対化」を、中国伝統のプラグマティズムとも相いれないと難じた。

米国が抜き差しならない国内対立で不安定化し、中国がロシアや北朝鮮を従えて国際秩序を更新しようとする時代に入っている。歴史への深い洞察に基づく五百旗頭流の見取り図が、日本には今後も必要だった。

政治は常に入り組んだ現実との格闘だが、岸田文雄首相の周りには五百旗頭のような「知のダム」が見当たらない。それが岸田政治、岸田外交なるものを場当たり的にさせている理由の一つだろう。

バナー写真:インタビューに答える五百旗頭真氏=2020年1月撮影(共同)

自民党 東日本大震災 五百旗頭真