小城炭鉱閉山後、解体される炭車=昭和37(1962)年8月、故相島幸雄氏撮影、多久市郷土資料館提供

 多久市では江戸時代中頃から石炭が採掘され、昭和35(1960)年に人口が4万5千人を超えるほど石炭産業が盛んでした。一方でエネルギーが石炭から重油に切り替わりはじめ、安い海外炭の輸入が増大していきました。国内の炭鉱は合理化を迫られ、中小炭鉱の経営は行き詰まり、給料の遅配や失業による貧困が問題となっていきます。昭和33(1958)年に多久炭鉱(北多久町)が休山したときは、困窮した従業員のために市民からお金や食料の寄付を募ったほどでした。

 相次ぐ炭鉱の閉山によって、人口は短期間に激減して昭和43(1968)年には3万人ほどになり、市民生活にも大きな影響がありました。小売業の売り上げは減少し、農作物も販売先を失いました。小中学校も生徒の転出が相次ぎ、余剰となった教職員も異動となり、石炭の取り扱いが減った駅からは駅員の数も削減されました。多久市は市税が減収となった上、閉山した炭鉱住宅への水道事業や離職者対策などのため負担が増大し、財政は困難を極めました。

 炭鉱閉山は「去るも地獄、残るも地獄」(川内昇「炭鉱閉山始末記(3)」)といわれるほど、人々の暮らしに大きな爪痕を残したのです。

 多久市郷土資料館では、多久市郷土資料館企画展「あの頃、多久に炭鉱があった~炭鉱閉山50年~」を4月2日まで開催中です。

(多久市郷土資料館・志佐喜栄)