戦後70年 高度成長の軌跡(2)

日本の超高層ビルの礎を築いた霞が関ビルの建設計画 関東大震災を耐えた上野・寛永寺の五重塔がヒントに

【戦後70年 高度成長の軌跡(2)】日本の超高層ビルの礎を築いた霞が関ビルの建設計画 関東大震災を耐えた上野・寛永寺の五重塔がヒントに
【戦後70年 高度成長の軌跡(2)】日本の超高層ビルの礎を築いた霞が関ビルの建設計画 関東大震災を耐えた上野・寛永寺の五重塔がヒントに
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 ベートーベンの交響曲「第九」が流れる中、「36階 147M」と書かれた鉄骨が日の丸とともに、厳かに引き上げられていった。

 昭和42年4月18日、霞が関ビル(東京都千代田区、高さ147メートル)の上棟式。開発にあたった三井不動産社長、江戸英雄(故人)はクレーンを見上げながら、あふれる涙を抑えきれなかった。施工者として若手ながら現場監督を任された鹿島の角田勝馬(71)も感極まっていた。「あの感激は一生忘れない」と、角田は振り返る。

 地震国である日本では不可能とされていた摩天楼。わが国初の超高層ビルは、高度経済成長時代を経て、先進国に生まれ変わる日本の象徴に他ならない。

 「都市問題を解決し、日本を変貌させる」-。江戸の抱いた夢を実現させたのは、復興から先進国の仲間入りを願った経済界の熱意と、開発・建設にかかわった人々の執念だった。

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 戦後20年を経た1960年代。焼け跡から復興した街並みは、狭い敷地にマッチ箱のような建物が並び、サラリーマンらが働くオフィスも驚くほど狭かった。右肩あがりの経済成長とはうらはらに、東京で最も高いビルは9階建て、高さ約31メートルにとどまっていた。大正12(1923)年の関東大震災で強化された「市街地建築物法」の規制を引き継いだ当時の建築基準法では、ビルの高さを31メートル以下と定めていたためだ。

 「これだと敷地を全部使ってしまうよな」

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