北方領土 屈辱の交渉史(2)

樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった…

明治8(1875)年3月8日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時)。駐露特命全権公使を拝命した榎本武揚(たけあき)は露外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合った。

榎本「千島全島を譲るべきだ」

スツレモーホフ「それは大島たる幌筵(パラムシル)島までも望むのか?」

榎本「幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたい」

スツレモーホフとの協議は延々と続いたが、榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取った。榎本がロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと樺太千島交換条約の調印を交わしたのは5月7日だった。

旧幕府海軍の指揮官だった榎本は、箱館戦争(五稜郭の戦い)で敗北し、投獄されたが、その命を救ったのは、オランダ留学中に手に入れた「海の国際法と外交」の写本2巻だった。

明治政府は発足したばかりで外交や国際条約は門外漢ばかり。榎本が所蔵する写本の存在を知った黒田清隆が、知人の福沢諭吉に翻訳を頼むと、福沢は一読してこう言った。

「この万国公法は海軍にとって非常に重要だ。これを訳すことができるのは講義を直接聴いた榎本以外にない。榎本に頼めないようでは邦家のため残念だ…」

黒田は榎本の助命嘆願に駆け回り、榎本は明治政府の要人としてその後活躍する。ロシアとの領土交渉はその大きな成果の一つだ。

× × ×

北海道の北東洋上に浮かぶ択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島からなる北方領土(計5千平方キロ)は、ただの一度も外国の領土になったことはない。その先にはカムチャツカ半島まで占守(しゅむしゅ)島を最北端に千島列島が延びる。オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝だといえるが、なぜ明治政府が樺太と千島を交換しようと考えたのか。

安政2(1855)年2月、江戸幕府はロシアと日魯(ろ)(露)通好条約を締結。国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に引き、樺太を「日露両国民の混住の地」と決めた。

ところが、ロシアは明治2(1869)年に樺太を「流刑地」に一方的に指定した。以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。樺太の日本人居留地を守るため国境線策定は喫緊の課題だったのだ。

そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本だった。北海道事情に詳しく国際法にも強い。榎本は渋ったが、黒田は太政官(中央政府)に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露全権特命公使(海軍中将)に任命してしまった。

榎本は明治7(1874)年3月10日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸。サンクトペテルブルクに到着したのは6月10日だった。

樺太を全て領有したいロシア。日本も樺太放棄に異存はない。合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。

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