父の教え

歌手・二代目 松原操さん 「必ずカムバックするんだ」

【父の教え】歌手・二代目 松原操さん 「必ずカムバックするんだ」
【父の教え】歌手・二代目 松原操さん 「必ずカムバックするんだ」
その他の写真を見る (1/2枚)

「旅の夜風」「誰(たれ)か故郷を想(おも)わざる」など数々のヒット曲で知られ、生涯に3千曲をレコーディングした昭和の大歌手、霧島昇さん。若くしてトップスターに上り詰め、生涯努力を惜しまなかった。三女の大滝てる子さん(67)は、同じく歌手として活躍した母親の松原操さんの名を受け継ぎ、「二代目 松原操」として両親の歌を中心としたコンサート活動を続けている。

先に世に出たのは先代の松原さん。昭和8年、「ミス・コロムビア」としてデビューした。当時は東京音楽学校(現東京芸大)の学生だったため、名を伏せた「覆面歌手」として売り出し話題を集めた。3歳年下の霧島さんは、12年にデビューしている。

2人は映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」をデュエット。映画は、すれ違いを続ける男女がシリーズ3作目の完結編で結ばれるものだったが、霧島さんたちも14年に結婚した。初代の松原さんは23年、家庭に入るため引退し家族を支えることに。

霧島さんは、ほぼ毎夜ステージを務めた。「午前中はゆっくり寝て、昼ごろに起きる生活でした。とにかく神経質で、起こさないように家族みんなが気を配っていました」と娘の松原さんは振り返る。

子供たちと打ち解けて話すことはなく、向き合って何か言うのはお説教をするときぐらい。「家に父がいると言うよりは、歌手霧島昇の家に居候しているという感じでした」。家族で温泉旅行をしたこともあったが、温泉に向かう自動車の中で霧島さんは、ずっと歌の練習をしていた。

霧島さんが25歳のときに「旅の夜風」で一世を風靡(ふうび)して以降もヒットを連発し、専属するコロムビアの「ドル箱」と呼ばれたが、やがてスターの座を明け渡す。「全盛期を取り戻すため、自分と戦い続けなければなりませんでした。さぞつらかったろうと思います」

朝から晩まで歌の練習をした。家族と顔を合わせるのは食事のときぐらい。「お父ちゃんは必ずカムバックするんだ」が口ぐせだった。

美声を維持するため、健康にも気を配った。お酒が好きだったが、1日飲んだらその後3日は飲まないというルールで、手帳にメモして厳格に守った。肉を食べないと声が出ないと信じ、毎日のようにステーキを食べた。

還暦を迎え、「勉強しなくちゃ」と自分を鼓舞し、実践した。一からピアノを始め、作曲をするための音楽理論を学んだ。さらに英会話も。それぞれ教師に付いて学ぶという熱の入れようだった。

「『今からやってもね』と思っていました」と松原さんは当時を回想する。だが、自身がそのころの父親の年齢に追いついて、「並大抵の気力ではできません。挑み続けるのは、すてきなことだと気付きました」とたたえる。

59年4月に霧島さんが息を引き取り、2カ月後に後を追うように初代の松原さんも旅立った。霧島さんは亡くなる前年に手術を受けたが、そのときストレッチャーの上では発声練習をしていた。「何も語らない父でしたが、最後の最後まで精進し続ける大切さを教えてくれました。『人生とは何か』という問いに対し答えを示してくれたのでしょう」。父の声を聴きながら背中を追い続けることを誓った。(櫛田寿宏)

≪メッセージ≫ 不器用な性格のDNAは父親から引き継ぎました。これからも精進していきます。

霧島昇

きりしま・のぼる 大正3年、福島県生まれ。昭和12年に「赤城しぐれ」でデビュー。13年に「旅の夜風」が大ヒット。59年4月、69歳で死去した。今夏、霧島昇、松原操の名曲を集めた「懐かしの名歌手全曲集」がそれぞれ発売された。

二代目 松原操

にだいめ・まつばら・みさお 昭和26年、東京都生まれ。東京音楽大声楽科、同オペラ研究科卒。日伊声楽コンコルソ第2位入賞。文化放送音楽賞受賞。日本歌曲コンクール入賞。日本音楽コンクール入選。両親のヒット曲を歌うコンサートを各地で開催している。

会員限定記事会員サービス詳細