モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

共産主義者は家族を破壊する

共産主義の本質に鋭く迫ったアニメーション映画「FUNAN フナン」
共産主義の本質に鋭く迫ったアニメーション映画「FUNAN フナン」

 時節柄、映画の試写会もオンラインだ。先日「FUNAN フナン」というアニメーションを見た。2018年のアヌシー国際アニメーション映画祭で、長編コンペティション部門の最高賞を受けた作品である。

 中国共産党の支援を受けて、5年にわたる内戦に勝利したポル・ポト率いるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が、首都プノンペンに入城した1975年4月17日以降のカンボジアで起こった悲劇を、ひとりの母親の目を通して描く。脚本と監督はフランス生まれのドゥニ・ドー。カンボジアにルーツを持つ彼は、母の体験をもとに脚本を書いたという。タイトルは、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)で栄えた古代国家、扶南国に由来する。

 周知のように毛沢東思想と文化大革命に強い影響を受け、現代文明を否定して原始共産制社会をめざしたクメール・ルージュは、政権奪取から崩壊までの4年間で、同国の社会基盤を徹底的に破壊、自国民800万人の5分の1を死に追いやった。

 旧体制を憎み社会主義革命を企てる人々は決まって家族を壊そうとする。国の歴史、文化、伝統などを受け継ぎ、次代に伝えるのは家族だからだ。彼らは家族間の密告を奨励し、「子供は社会のもの」として親から子供の教育権を奪う。こうして家族は切り離され、それぞれは寄る辺ない原子状態に置かれる。不確かな記憶だが、1960年代後半に吹き荒れた学生運動のバイブルとなった羽仁五郎氏の『都市の論理』にも「子供は社会のもの」という思想が潜んでいたように思う。

 クメール・ルージュも家族の破壊に熱心に取り組んだ。都市から農村へ強制移住させられた人々は、家族ごとの食事を許されず、村落の共同食堂で食事をとらなければならなかった。子供は幼児のうちから子供労働キャンプに入れられて「教育」された。

 この作品で、ドー監督はプノンペンに暮らす中流家庭の食事の場面から物語を始める。慧眼だ。そして虐殺そのものを直接描くことはしない。軸になるのはオンカー(革命組織)の「指導」のもと、プノンペンから農村に強制移住させられる途中で幼い息子と生き別れになってしまった女性チョウの「家族回復」を求める闘いだ。

 加えて移住させられた農村で奴隷のように使役される人々の姿を描くことで、極限状態のなかでよりあらわになる人間の弱さ、ずるさ、そして何よりも強さと優しさを、静かに伝えようとする。カンボジアの美しい自然が得も言われぬ詩情を添える。作品を貫くのは、人間、家族、国の回復力(レジリエンス)を信じようとするドー監督の祈りにも似た思いだ。

 12月25日からYEBISU GARDEN CINEMA(東京都渋谷区)、シネ・リーブル池袋(東京都豊島区)ほかで公開される。

朝日記者の見込み違い

 ここで脇道にそれたい。この作品を見て、朝日新聞の故和田俊(たかし)さんが書いた記事を思いだしてしまったのだ。和田さんはテレビ朝日の「ニュースステーション」でコメンテーターを務めていたので覚えている方も多いだろう。その記事とは、クメール・ルージュのプノンペン入城から2日後、4月19日の朝日新聞夕刊に掲載されたものだ。

 《カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんど見られなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。しかも、解放勢力の指導者がプノンペンの裏切り者たちに対し、「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。それよりも目の前から消えたくれた方がいい」という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。〈中略〉カンボジア人の融通自在の行動様式から見て、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか》

 ジャーナリストに見込み違いは付き物とはいえ、これはちょっとひどい。現地を取材せず、東京のデスクで過去の体験を頼りに書いたのだろう。当時の日本社会を覆っていた「アメリカ帝国主義=悪」「共産主義勢力=善」という妄想図式の影響も大きかったに違いない。この記事がきっかけで、母国の役に立とうと帰国したカンボジア人留学生もいたはずだ。その意味でもとても罪深い記事だと考える。教師、医師、技術者といった知的な国民を徹底的に粛清したクメール・ルージュの蛮行が明らかになったとき、和田さんはどんな思いにとらわれたのだろう。

大切なのは「よりマシ」

 モンテーニュはこんなことを言っている。

 《人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースもでっち上げる》(第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」)

 私はこう言い換えたい。「共産主義者は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神のごとく理想の社会をでっち上げる」

 権力を奪取した共産主義者は自らの理想のために、粛清の嵐が吹き荒れる監獄のような恐怖社会をつくりだしてきた。カンボジアでもそれが繰り返された。クメール・ルージュは一神教の神、それも優しさのかけらもない邪悪な神となってカンボジアに君臨した。

 理想の社会を夢想することを私は否定しない。ただ共産主義者が性急に自分たちの理想を追えば何が起こるか…。私たち人間は「虫けら一匹造れない」存在なのだ。まずそのことを謙虚に受け止めたい。日本に生きる私たちにできるのは、国や社会に根を張った伝統や文化を踏まえながら、主権者として「よりマシ」と思われる選択をしていくこと、これ以外にない。「FUNAN フナン」を見てこんなことを考えた。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。(文化部 桑原聡)

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