本郷和人の日本史ナナメ読み

憎まれたナンバー2㊦ 「君側(くんそく)の奸(かん)」排除の論理とは

高橋是清(国立国会図書館蔵)
高橋是清(国立国会図書館蔵)

君側の奸を除く、という言葉があります。王様がいる。王様の周囲にはたとえば大臣たちのように、王様の判断をサポートする側近たちがいる。王様と側近は政府を形作っているのだけれど、最近、政府はおかしな政策ばかりを発している。これは王様が悪いわけではない。王様の周囲の側近が「悪いやつら」で、王様の判断をねじ曲げているのだ。だから、この「悪いやつら」を一掃し、王様を救い出して、正しい政府を構築しなくてはならない。

こうした理念で軍が動いたのは、明治維新以降であれば、西南戦争や高橋是清蔵相らが暗殺された二・二六事件などでしょう。王様はもちろん天皇です。西郷隆盛たちは明治天皇に反旗を翻すつもりはさらさらなかった。けれども大久保利通以下の明治政府のやり方には我慢ができない、ということで反乱を起こした。西郷たちは天皇を「玉(ぎょく)」と呼んで江戸幕府を倒す切り札として用いました。そうした西郷に明治天皇に対する忠義心がどれほどあったかは議論が分かれるところでしょうが、二・二六事件を引き起こした青年将校たちが昭和天皇に篤(あつ)い忠誠心を抱いていたであろうことは間違いありません。彼らは奸物(かんぶつ)を除くことが、天皇の「大御心(おおみこころ)」に沿うものと信じていたわけです。

王様は悪くない。悪いのは王様の側近であるあいつだ。この動きで解釈できるのが、関ケ原前夜に起きた、石田三成襲撃事件です。慶長4(1599)年の閏(うるう)3月3日、秀吉亡き後、豊臣政権の重しとして機能していた前田利家が亡くなります。するとすぐに加藤清正以下のいわゆる「武断派」が、石田三成を襲うべく動き始めます。「武断派」と「文治派」の対立として理解されているこの騒ぎは、結局は徳川家康の裁定で、三成の政界からの引退、という形で決着がつきます。

けれどもぼくは、この整理の仕方が腑(ふ)に落ちないわけですね。○○派と△△派の衝突、という整然とした争いならば、なぜ三成以外の奉行たちが襲われなかったか。とくに領地の多寡、京・大坂への近さから見て、三成と同じくらい秀吉から評価されていたことの分かる増田長盛(大和郡山20万石)は標的になっていない。加藤らはあくまでも「三成憎し」で動いている。彼こそは「君側の奸」であると認定している。

(石田)佐吉め、許せん! 太閤殿下をたぶらかしおって! 虎の威を借る狐(きつね)、という比喩もここでは有効でしょう。では三成の具体的な何が許せないのかというと、それはやはり朝鮮出兵でしょう。あいつは戦場に出てこない。補給などを担当していて、命がけの働きをしようとしない。ふざけるな! 壁の土まで食べたという蔚山(ウルサン)城の籠城戦などを思うと、清正らの怒りも分かる気がします。

ただし、ここで注意すべきは、朝鮮出兵を指令していたのは、あくまでも王様である秀吉だった、ということです。それはみんな、分かっていた。秀吉の命令だからこそ、加藤清正は、領地が肥後北部に20万石ほどですので5千人の軍勢をそろえれば御の字であるところ、なんと1万人の兵を用意して海を渡った。もちろん金はべらぼうにかかるわけです。大切な家臣は倒れていく。ところが新しい領地は一坪も増えない。文禄の役はともかく、2度目の出兵である慶長の役なぞに勇んで参加する将兵はいなかったでしょう。

加藤や福島正則は、本当は、秀吉にこそ文句を言いたい。バカなことはやめてくれ、と。こんな戦いをいつまで続ける気なのだ、と。けれど言えなかった。戦地での不始末を理由に豊後一国を丸ごと召し上げられた大友吉統(よしむね)を思えば、絶対的存在である秀吉の権力の巨大さはいや応なく身にしみる。加藤ら子飼いの武将にすれば、引き立ててもらった大恩もある。秀吉の決定を否定するなどは怖くてできないし、情の部分でもしたくない。でも恨み辛(つら)みはあるわけで、それが石田三成に向いてしまった。

三成は、秀吉のもっとも忠実かつ有能な手足であった。秀吉の意志を実現すべく、一生懸命に働いたのが彼だった。もちろんその行動や態度に、問題がなかったわけではないでしょう。でも、襲撃事件の翌年に家康討伐の兵を挙げたことからも分かるように、彼には「秀吉への忠義、豊臣家への忠節」が確実にあると思います。だからこそ秀吉への怨念を、彼が一身に背負うことになってしまった。

そう思って、鎌倉時代を想起したときに、あっと思ったのが、梶原景時の弾劾なのです。景時といえば、「おべっか、告げ口野郎」という感じを持たれると思いますが、この評価が広まるのは、室町時代に『義経記』が多くの人に読まれるようになってから。源義経の敵役が必要になり、告げ口をする景時、ができあがった。ところが、『曽我物語』の古い本を見ると、景時はまっとうな武士です。幕府に弓引いた武士を庇護(ひご)し、折を見て御家人に返り咲けるよう進言する男気も発揮していた。要するに、悪役ではないのです。

ではなぜ、景時が弾劾を受けることになったのか。ぼくは彼が石田三成と同じく、王様である源頼朝のもっとも忠実かつ有能な手足だったから、と考えます。京都は彼を、「(2代将軍)頼家の第一の郎党」と認識していましたし。

でも、景時は頼朝の意志の「忠実な体現者だった」のでみなの恨みを買った。この関係が成立するためには、有力御家人たちが頼朝に不満をもってないと成り立たないはずでは? いや、そのとおり。ぼくは御家人たちには、頼朝への不満が強烈にあった、と考えています。では、それは何か。来月の本コラムで。

二・二六事件で倒れた高橋是清

1854~1936年 日本の財政家、日銀総裁、政治家。財政といえば必ず名前の出る人物である。彼の人生はまさに波瀾(はらん)万丈で、少年時代にアメリカでその身を売られたり、帰国してから酒と女性で身を持ち崩したり、社会に出て官僚になってからも廃鉱を買うなどして何度も破産したり。驚嘆すべきはその都度立ち直っていることで、まさに「七転び八起き」のダルマさんのごとしである。だが、そんな彼も凶弾には勝てず、二・二六事件で暗殺された。

本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

憎まれたナンバー2㊤ 梶原景時=石田三成?

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