話の肖像画

精神科医・エッセイスト きたやまおさむ<6> 全レコード会社からオファー殺到…「プロに」

プロとなったザ・フォーク・クルセダーズ(左から本人、はしだのりひこさん、加藤和彦さん)=昭和43年2月
プロとなったザ・フォーク・クルセダーズ(左から本人、はしだのりひこさん、加藤和彦さん)=昭和43年2月

《アマチュアのザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)が解散記念に自主制作したアルバム「ハレンチ」に収められた『帰って来たヨッパライ』はラジオ関西(本社・神戸市)で放送されたことをきっかけにして話題を呼んでゆく》


(昭和42年の)9月にアルバムをつくって、ラジオで流れたのが10月の中旬だったかな。その頃はもうすっかり〝解散モード〟で、解散記念のコンサートでは〝お別れの〟花束まで受け取っている(苦笑)。

ところが、だんだん他の放送局も『…ヨッパライ』をかけてくれるようになった。それはいいけれど、レコード自体がないんですよ。何しろ、あちこちに配って僕の手元にすらなかったのですから。

結局、ある放送局は(最初にレコードを買ってくれた)ラジオ関西から借りた。そして放送時に「ラジオ関西さんのご厚意で放送しています」という「おことわり」を入れたのです。そこから関西の放送局の〝交流〟が始まったというのですから、面白いですねぇ。


《『…ヨッパライ』は、やがて東京のレコード会社や放送局にも注目されることに》


きっかけのひとつは、高崎一郎さん(※昭和6年生まれ。ニッポン放送のプロデューサーやパーソナリティー、パシフィック音楽出版=現フジパシフィックミュージック=の社長などを務めた)でしょうね。

ちょうど「オールナイトニッポン」(※深夜放送ブームの先駆けとなったニッポン放送のラジオ番組。42年10月放送開始)が始まった頃で、パーソナリティーを務める高崎さんが番組の中で3度も4度も『…ヨッパライ』をかけてくれた。それが深夜放送の勢いにもつながったのだと思います。そのときはまだビジネスと僕らの純粋な思いが共存できたんですね。

そのうちに、東京の大手レコード会社全社から(契約の)オファーが来ました。プロになってレコードデビューしないか、という誘いですね。

僕の家は父親が開業医だったので、患者さんとの連絡用に当時は珍しい留守番電話の機能があり、そこに次々と契約を望む伝言が残されていきました。僕はこれで10万枚は売れるかな? オヤジから借りた20万円も返せるぞ、なんて勝手にソロバンをはじいていましたが、加藤和彦はどうも煮え切らない。最初はだんまり、ぶつぶつ…。

でも、2週間くらいたったらもう、プロデューサー役の僕の手に負えないほどの大騒ぎになっていた。自主制作のプレスを頼んだところが、ジャケットもないまま勝手に「海賊版」をつくったのが出回ったり…。こりゃあ10万枚どころか100万枚いけるぞなんて、僕らもすっかり〝その気〟になったのです。


《このとき東芝音楽工業(当時)のディレクターで熱心にフォークルを誘ったのが高嶋弘之さん(※昭和9年生まれ、俳優・高島忠夫の弟、バイオリニスト・高嶋ちさ子の父)》


先に別のレコード会社が誘ってくれて編成会議にまでかけてくれたのですが、結局は「こんな下品なものはダメ…」ということになり僕らはガッカリ。東芝の高嶋さんの決め手はスピードでした。「(昭和42年の)年内にレコードを出してくれる」というから、僕らは東芝音工と契約を結んだのです。


《フォークルは、家業を手伝うために抜けた平沼義男さんに代わって、バンド仲間だった、はしだのりひこさんをメンバーに入れ、プロとしてデビューする。活動は「1年間」の限定付き。12月25日に発売された『帰って来たヨッパライ』は爆発的な売れ行きを記録する》(聞き手 喜多由浩)

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