ミリタリー誌『丸』1月号

元「戦艦大和」副長の能村次郎海軍大佐 発掘手記に綴った最後の特攻出撃

戦艦大和(「丸」編集部管理写真)
戦艦大和(「丸」編集部管理写真)

先の大戦で日本の運命を担って建造された日本海軍の戦艦「大和」。46センチ砲を搭載した〝最強戦艦〟の称号を得ながらも、沖縄特攻作戦で撃沈された悲劇の巨艦である。ミリタリー誌『丸』(潮書房光人新社)1月号の戦艦「大和」特集から、「大和」副長の能村次郎氏(元海軍大佐)が沖縄特攻での最後の戦いの模様を克明に記した昭和31年の手記から抜粋して紹介する。

沖縄泊地に突入せよ

昭和20年4月上旬、第2艦隊は呉軍港における整備補給を終わり、3月末、瀬戸内海西部に進出した。

その頃はもう、B・29が内海西部に姿を見せ、また米機動部隊の艦載機が広島湾に侵入して来ることさえあった。艦隊はいつも航海準備をし、対空警戒を厳しくしていなければならなかった。

夜半敵機が艦隊上空に吊光弾を落としたり、盲爆したり些細な異変はあったが、何事もなく、4月5日の朝を迎えたのである。

薄日の差す小春日和であった。

豪放で無頓着な有賀艦長が、1番砲塔の右舷にいた私のところにやって来た。いつもと変わらず、ニコニコしている。私もついつり込まれてニコニコした。挨拶のつもりだった。

艦長は、一瞬顔を強張らせたかに見えたが、無造作にいう。

「副長、明日沖縄にでかけることになった。科長、(大、中佐級7、8名)を集めてくれ」

はっと私は気づき、艦長をまじまじと見つめたが、何事もなかったようにまたニコニコッと笑い、スタスタと歩み去って行った。

直ちにマイクで総員集合を予令する。とともに指示通り各科長を集合した。かねて計画してあったことだから、出撃準備の手取りの打ち合せは数分の立ち話しで事足りた。艦内の出撃準備は常に完成しており、改めてやり直す必要はないのだ。

この時、まさにこの時運命のサイは投げられたのだ。「大和」はこの時既に死神に憑かれていたはずである。何故なら、この出撃には、片道分の燃料しか搭載せず、絶対に不生還が初めから定められてあったのだ。偽らずにいい切れる覚悟があったら、「あと3日の生命だ」と納得すべきときであった。艦内は死に場にふさわしく、徹底的に整理しておかねばならない。

だが、この出撃を告げたとき、各科長の顔には重荷を下ろしたような気安さが見受けられたのはどうしたことだったろう。

マイクによって前甲板に集合した総員に、艦長は連合艦隊司令長官からの出撃命令を伝達した。「第2艦隊は、4月8日未明を期し、沖縄の泊地に突入し、所在の敵艦船を攻撃せよ」─。

高揚する乗組員たち

前甲板は一瞬しーんと静まりかえったが、そのすぐ後は、若い士官(乗組中少尉級)のある者は瞳を輝かし、飛び上がるやら、同僚相抱いて喜ぶやら、純真な気持そのままをさらけ出す騒ぎである。さすがに実戦に慣れ切った乗員の面上には何の変わりもない。引き続いて准士官以上を集めて、日課および作業の段取りを打ち合わせ、その完了時刻を午後5時と予定した。

さてそれからは大変だった。

一切の可燃物の陸揚げがなされる。

機密書類(暗号書機密記録など)、私有品の陸揚げがなされる。出港まで交通に必要なる短艇を除き、全短艇の預け入れ(徳山港務部へ送る)が始まる。

兵器、防火防水装置の点検作動試験はまさに目まぐるしいばかりであった。そうして作業は予定通り、午後5時に完了した。

夕食後は、出撃の首途を祝う各分隊ごとの最後の壮行宴が開かれた。

私は宴の最中、有賀艦長と連れ立って艦内を一巡する約束だった。辺幅を飾らない有賀艦長は、まず最初に入った第1士官次室(乗組中少尉及び候補生の公室)で、注がれるままに杯を空けながら皆の騒ぎをニコニコ見て居られた。室内は艦長を交えて和気藹々、明日の出撃も忘れたかのようであった。やがては艦長の胴揚げまで始まる騒ぎであった。

目頭がわれ知らず熱くなって、私は一人次室を抜け出して各甲板を見て廻った。到るところ飲む、歌うの大騒ぎである。

なかには上級者の騒ぎをよそに、平素の日課の通り、故郷の自慢話にふけりながら真鍮を磨く若年兵もいる。手紙を書いている者、なお受持兵器の手入に余念のない者もいる。明日の出撃など念頭にないような全く平素通りの姿である。

だが一方早く当直に入る機関科員には、真新しい戦闘服装に着換えている者もあった。何かがいつもの出撃と違っている。「必勝」「武運長久」などの貼紙、供えてあるお守、神酒の多いことなども、何となく妙なものだ。

名残りの尽きない宴会ではあったが、午後10時、終了を令した。艦内の空気は即座に出撃精神の緊張に立ち直った。12時から同行の駆逐艦を交互に「大和」に横づけして、重油を補給した。

沈みゆく戦艦大和(「丸」編集部管理写真)
沈みゆく戦艦大和(「丸」編集部管理写真)

君が代、遥拝、故郷に頭を

翌6日。

午前は更に艦内各部の点検整頓、陸揚物件の輸送を行ない、午後から出港準備を開始した。乗員の書いた最後の手紙は、午前10時に締め切って徳山郵便局に託送し、午後2時には、止めてあった短艇全部を送り出して陸上との連絡を断った。乗組員はどんな思いで、故里に送る最後の手紙をしたためたであろうか。

これより先、戦闘に耐え得ないと認められた重病人、それに乗艦してから幾日も経たず、艦内に全く不案内であった候補生の総員は退艦させられた。候補生は異口同音に同行を懇願した。執拗に懇願しなかなか諦めず、納得させるのに困るほどであった。「大和」は、それがたとえ死に行く「大和」であってさえ、彼らには憧れの的だった。

午後2時、連合艦隊参謀長草鹿中将が、水上機で来艦し、伊藤第2艦隊司令長官に豊田連合艦隊司令長官の訓示を伝達された。そして午後3時、艦隊の主なる士官たちは士官室に集合、草鹿参謀長の挨拶および伊藤長官の訓示があった。静かな挨拶だった。力強い挨拶だった。聞き終わって各艦に帰る艦長、司令たちは意気旺盛闘志満々たるものが見受けられ、たいへん気楽になった。

午後4時、巡洋艦「矢矧」を先頭に各艦出港・文字通り必死の出撃行である

。薄曇りの海上に南西の微風が快く流れる。同行の駆逐艦は「冬月」、「涼月」、「雪風」、「磯風」、「浜風」、「霞」、「初霜」、「朝霜」の8隻。

速度は12ノット。

豊後水道通過の時間の関係上、三田尻沖を出ると、「大和」を目標として護衛駆逐艦の襲撃運動教練が行なわれたが、型の如く、順調に経過して何事もない。

午後5時、手すきの総員を前甲板に集めて私は連合艦隊司令長官の訓示を伝達した。

終わって「君が代」を奉唱、皇居を遙拝し、各自の故郷に向かって頭を垂れた。解散を令しても皆暫くその場を去らなかった。

夕靄の中に薄れ行く四国の山々にところどころ桜の花模様が見えて、静かな美しい景色であった。これが桜の花の見納めだ。

警戒警報「配置に就け!」

豊後水道に入る頃は、桜も闇の中に消え、伊藤長官、森下参謀長、有賀艦長、茂木航海長、司令部参謀、航海幹部見張員伝令などでいっぱいの戦闘艦橋も、計器の響きと操舵号令のほかは咳一つ聞こえない静けさであった。

制海制空権がまるっきりないので、豊後水道の警戒水路を通過し終るともう敵地と思わねばならない。内地が近いからといって安心は出来ない。夜間空襲の心配はまずないとしても、いつ潜水艦の襲撃を受けるかわからない。艦橋から各部に「豊後水道を出た」と通告される。

「警戒を厳にせよ」の言葉は、改めて緊張感を艦内に漲らした。警戒水路を出終わると、艦隊は対潜警戒航行の隊形をとり、速力16ノットで南へ向かった。

午後8時40分、突如警戒警報が艦内に響いた。

続いて「配置に就け」の号令!

警戒中の水中聴音器が、左舷前方に敵潜水艦を探知報告したのであった。艦隊は直ちに右に緊急回頭し、22ノットに増速して潜水艦を遠ざかるように行動した。一時ざわめいた艦橋も、伝令を通じ各部整備の報告が出終わると、再び元の静かさに立ち返った。

10分、20分、敵潜水艦の反応は何もない。

午後10時、艦内は第2哨戒配備に復し、艦隊は22ノットの速力そのままで九州東海岸沖を一路南下して行った。

敵機、左15度大編隊発見

明けて4月7日。

早朝大隅海峡を東から西に抜ける。

午前6時、搭載の飛行機を射ち出して基地へ送る。残しておけば別のお役に立つと考えられたからであった。空は重苦しい雲に蔽われているが、海上は割合に静かで、視界は良好、水平線まではっきりわかる透明さである。雲が低く上空にあることは対空射撃を著しく困難にする。

鹿屋基地派遣の戦闘機が、上空警戒を解いて飛び去ると入れ違いに敵の哨戒機が出現し、遙か水平線の彼方から触接して離れない。いかにも癪にさわるが、威力を誇る巨砲も到達距離には限度があり、翼のない艦隊にはこれを逐い払うすべがない。

艦隊の行動は逐一、正確に沖縄の敵基地に報告され、手に取る如くわかっていることだろう。

静かに時が流れる。無気味な沈黙が続く―。穏かなうちにと、11時、全員交代で食事についた。

敵はいつ襲いかかるかわからないだけに、落ちつかない食事である。味がまったくない。

そして案の定、食事が終わったか終わらぬ午後零時20分、電探が近接する敵機の集団を探知したのである。直ちに、総員戦闘配置につく。艦隊は25ノットに増速し各艦の距離を開いて雷爆撃に備える。

待つ間もなく、艦橋2番見張員が叫んだ。

「左15度艦上機の大編隊、左へ行く」

「編隊は20機」続いて1番見張員、

「右30度大編隊、右へ行く、500(距離)」

「敵は雷爆連合」

包囲態勢をとって刻々近づいて来る。雲のため遮られて追従監視が出来ない。私は上空近距離の雲間を渡る敵機の姿を見て艦橋を離れ、急いで防御指揮所へと降りた(それから沈没直前まで、私は外部の状況は直接視認していない)。

それとほとんど同時に射撃の爆音が、耳をつんざく。

「始まったな」

「爆弾か? 魚雷か?」

やがて艦を揺がす震動、防御指揮官が報じてくる。

「爆弾後部電信室に命中」

「主砲後部指揮所爆弾のため破壊、第3分隊長戦死」。これが被害の第一報であった。

つづいて「後部副砲弾庫小火災、第3砲塔応急員で消火中」

命中音が続く。

「魚雷左舷後部2発」「魚雷左舷中部」

艦が右左に大きく揺れる。転舵回避するための揺れか、被害のための傾斜なのか、わからない。小さい艦であると10度、15度の傾斜は当たり前であるが、「大和」の場合、5度以上の傾斜を持つと主砲の操作が困難になり、10度を超えると高角砲機銃も難しくなるから艦をつとめて水平に保つ必要がある。それがため被害局限の処置が施され、注排水装置が完備していて、傾斜が起れば即刻ほとんど自動的に復原するようになっている。

傾斜は魚雷の被害によるものとわかった。

魚雷を左舷にばかり受けたので、とうとう普通の手段だけでは抑え切れない状態にまでなったのだ。傾斜のままでは射撃効果が挙がらぬのみならず、回避運動が不自由になる。そうすると艦の被害はますます増加して艦の命が危うい。

私の記憶は途切れた

ついに防御指揮官が「右舷機械室、罐室に注水」を進言してきた。それまで重装甲の内部には何ら被害を受けていない。現に使用中の機械室、罐室ではあるが、艦の命を延ばすためには断行のほかはない。

私は艦長に報告するとともに、配置員を退避させ、注水を発令。

傾斜計は数度の傾斜の回復を示した。が、それもまた束の間のことだった。左舷の浸水量を増し、また刻々傾斜を増していく。相次ぐ被害に応急員も応接に暇がない。

午後2時過ぎ。傾斜は遂に15度に達した。危ない!

注排水指揮所との連絡は、機械室、罐水の注水後、途絶えて応答がなく、傾斜を直す方法がない。すでに射撃の爆音は絶えて、命中と爆発の振動のみ続く。艦速は8ノットに低下し、舵をやられて一方向に旋回するのみ。こうなるともはや艦は巨大な標的に過ぎない。敵機の攻撃は思うままである。

私は突嗟にこう考えた。「大和」にはもう何の抵抗力もなく、艦の運命は数分の後に迫っている。しかし最善を尽くして事ここに至ったのである。もとより生還を期し得ない特攻出撃ではあるが、3000の乗員をこのまま沈めていいだろうか?

戦争の前途はいよいよ多事で、ますます精練なる人を要している。物は償う方法があるが、人は2度と還らない。乗員を出来るだけ艦外に出さねばならぬ。今その処置をなし得る立場にあるのは自分ではないか、と。

意を決し、なお念のため第2艦橋に馳せ上って艦の外部を見渡すと、最上甲板の左半分はすでに水に浸り、煙突附近の構造物はすっかり破壊されて元の面影がない。

残員は甲板右舷の高処に集合して命を待っている。

電話をとって艦長に報告した。

「傾斜復原の見込なし。総員を最上甲板に上げる」。この間も「大和」は容赦なく傾いていく。

発令所へ御写真の処置を聞くと、「第9分隊長(保護の責任者)が奉持して私室に入った」との返事。

艦長からは折返し、「総員上甲板」の号令が艦内へ伝えられた。

だが、その命もむなしく、一時停止していた艦の傾斜が急に増し、ついに左舷に倒れてしまったのである。

私は第2艦橋の側壁に立ったまま、一瞬、巨鯨のような「大和」の横腹から振り落ちる無数の人を見た。何処ともなく「万歳」の叫びを聞いたように思いながら水中へと吸い込まれていった。

身辺皆水!

破壊物と溺れる人との渦の中!

1秒2秒3秒…大きな力で下って行く。

突然紫電一閃、あたりが真赤になったようだった。ここで私の記憶は切れた。

艦が左舷に倒れたため、弾庫の主砲弾数百発が1度に、激衝爆発してしまったのだ。

その爆煙が2000メートルにおよんだという。この熱気と爆圧と、雨あられのように降る破片と渦から逃れ、その後敵機の機銃掃討にも当たらず、幸運にも、残り3隻の駆逐艦に救われて九死に一生を得た乗員の数は、269名であった。


※『丸』1956年11月号を改訂のうえ再掲載

※『丸』最新号に、他の手記、大和のメカニズムなどを掲載

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