「スターになる」憧れの芸能界で奮闘 「マッチやヨッちゃんは根性なかった」

話の肖像画 歌手・田原俊彦<2> 

田原俊彦さん(松井英幸撮影)
田原俊彦さん(松井英幸撮影)

《「スターになる!」とジャニーズ事務所(現SMILE―UP.)に自ら履歴書を作成して送り、無視されるや〝直談判〟までして飛び込んだ芸能界。向上心が強く、根っからの負けず嫌いを貫いて45年間、「田原俊彦」であり続けた》


少年のころ、姉たちの影響で、芸能という世界、ブラウン管の中のキラキラしていた世界にとても興味を持っていました。夢を見続け、実際にテレビの中で暴れたところ、全国区になった、というわけです。

デビュー曲「哀愁でいと」が歌謡番組「ザ・ベストテン」にドーンと入ってくれたので、引退間際の山口百恵さんと半年間だけ、一緒に歌う時期がありました。スタジオで彼女と一緒になったとき、「ウワッ、山口百恵だ」と思った。ジュリー(沢田研二)さんのときもそうでしたね。「ウワッ、沢田さんだ」と。

憧れの沢田さんと後に対談ができたのは、僕が「全国区」になったからでしょう。ただ、沢田さんは僕をどういうふうに思っていたんでしょう。沢田さんはすごく優しかったし、気を使ってくれ、プロでした。とはいえ、沢田さんは僕が2、3年で消えるだろうと思っていたのでは? でも、そうは問屋が卸さなかった…(笑)。

僕には全く自信はなかったんですけど、「僕のスタイルで生きていくぞ」という気概はありました。僕は当時、〝ザ・アイドル〟というカテゴリーにいたので、なめられていた存在だったかもしれないけど、えたいの知れない自信がありました。

あの時代のテレビはすごかったですよ。たとえば「ザ・ベストテン」。「追いかけます、お出掛けならばどこまでも」をうたい文句に、どこまでも追いかけてきたんです。生放送なのですが、名古屋駅に停車した新幹線の中で歌ったこともあります。停車時間は約2分間。列車が動き出し、「最高です!」などと噴き出しながら答えましたね。当時だから、新幹線で歌うなんてことができたんでしょう。

俳優としても、少し驚くことがありました。ゴルフトーナメントに出場したとき、そこにいたテレビ関係者から「こいつに教師をやらせてみたら面白い」などと言われ、「教師びんびん物語」の教師役をいただいた。これが人気再浮上のきっかけになりましたから、どこにご縁があるのか分からない。


《スターであり続けるために「陰の努力」も怠らなかった》


センターを取りたい、というのはスターの性(さが)です。芸能人運動会や水泳大会では、ズルしてでも1位になりたかったですから。番組もそれを求めているし、あるディレクターなんて、「トシ、絶対に1位で来いよ」なんて言ってました。だから、運動会の直前は坂道ダッシュもしたし、泳ぎが苦手だったのでスイミングスクールにも通いましたね。マッチ(近藤真彦さん)やヨッちゃん(野村義男さん)には根性がなく、勝つという意思がなかったけど、僕は絶対負けられなかったんですよ。


《芸能界に導いてくれたのは、ジャニーズ事務所社長だったジャニー喜多川氏。その恩師に昨年、少年たちに性加害をしていた過去が判明した》


ジャニーさんには迷惑をかけっぱなしでした。ジャニーさんはすごくいい人で、いつからああいうふうになったのか分からないけど、僕たちが出会ったころは事務所自体が倒れそうなぐらい、しんどい時期だったんです。ジャニーさんは僕がレッスンのときには走ってお弁当を持ってきてくれたり、(姉で副社長だった)メリーさんも僕たちの衣装を作ってくれたりしました。僕は事務所がゼロの時代から始まった人間なんです。

僕がジャニーズを卒業したのが平成6年。そこから何かが変わったということもあるのでは、と思います。自分の育った事務所からジャニーズという名前がなくなったのは、残念でもあります。(聞き手 黒沢潤)

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