関連記事「史上初の合成基礎培地~必須栄養素の解明を目指して」では、1940~1950年代にかけてAlbert FischerやJoseph F. Morganらによって行われた合成培地の開発研究について振り返りました。これらの研究は、生体から採取した組織や細胞(初代細胞)をいかに長く培養し続けるかを追求した研究であるとともに、細胞の生存や増殖に必要な成分は何かという根本的な課題への挑戦でもありました。同時期に、史上初の株細胞とされるL929細胞(マウス由来)や、ヒト由来として最初の株細胞であるHeLa細胞が樹立されました。初代細胞には寿命がありますが、株細胞には寿命が無いため培養し続けることができます。必然的に、株細胞は培地開発の評価系として重要な役割を果たすことになりました。本記事では、株細胞が貢献した代表的な事例であるBasal Medium Eagle(BME)の開発研究に着目します。
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史上初の株細胞の樹立
上述のFischerの実験では、筋肉細胞の増殖に寄与するいくつかのアミノ酸が見いだされました。一方、どのアミノ酸を除いても細胞の増殖停止や細胞死には至らず、細胞培養に必須のアミノ酸の特定はできませんでした。そこでHarry Eagleは、Fischerよりもシンプルな実験系を構築することにより、培養細胞のアミノ酸の要求性の解明を目指しました。Eagleの実験に先立って、この実験目的にうってつけの革新的な細胞培養系が報告されていました。
1943年にWilton R. Earleは、マウス皮下組織から採取した線維芽細胞を発がん性物質(メチルコラントレン)で処理し、長期培養しながら形態の変化を追跡した実験を報告しました。この実験では、メチルコラントレン処理の期間が異なる複数の培養が行われており、strain(株、系統)の名称としてそれぞれH、J、L、N、Oなどと名付けられました(参考文献1)。そして1948年に、Katherine K. Sanfordら(Earleのグループ)がstrain Lからシングルセルクローニングを行い、後にL929細胞として世界中で使用されることになる史上初のクローン株細胞を樹立しました(参考文献2)。なお、Earleは関連記事「DPBSのルーツを調査してみた件」でご紹介したEarle’s Balanced Salt Solution(EBSS)の考案者であり、その組成の初出は参考文献1です。したがってこの論文にはEBSSの組成とstrain Lの培養という、後世のライフサイエンスに大きな影響を残した成果が2つも含まれていたことになります。
[参考文献1]
Earle WR (1943) “Production of Malignancy in Vitro. IV. The Mouse Fibroblast Cultures and Changes Seen in the Living Cells.” J. Natl. Cancer Inst. 4(2) 165-212
[参考文献2]
Sanford KK, Earle WR, and Likely GD (1948) “The growth in vitro of single isolated tissue cells.” J. Natl. Cancer Inst. 9(3) 229-46 (PMID: 18105872)
株細胞による実験のシンプル化で必須のアミノ酸の同定へ
培地の組成の検討にクローン化された株細胞を使用することは、いくつかの点で初代細胞よりも有利だと考えられます。まず、実験するたびに生体から細胞を採取する必要がなくなることから、細胞の準備が簡素化して実験が安定します。また、株細胞を用いれば、寿命による細胞増殖・生存への影響を考える必要が無く、培地の成分にだけ注目して評価することができます。さらに、均一な細胞集団である株細胞では、培地組成の変更によって個々の細胞が同じように応答するため、キレの良い結果が出やすいと考えられます。
Eagleは、6%のウマ血清と20%のニワトリ胚抽出液を含むEarleの生理的塩類溶液を完全培地として培養しているL細胞を利用して、細胞培養に必須の成分の特定を試みました。検証用の培地に添加する生体由来成分を0.5~2%の透析済みウマ血清のみとし、L細胞の増殖に必要な各種アミノ酸、ビタミン、無機塩類などで構成されるレシピを構築しました。その結果、細胞増殖に必須の13種のアミノ酸と、必須ではない7種のアミノ酸が特定されました。さらに、必須のアミノ酸の濃度を詳細に検討して、細胞増殖に必要な最低濃度と、増殖促進効果が最大に達する濃度を決定しました。興味深いことに、培養細胞のアミノ酸の要求性と生体マウスの必須アミノ酸・非必須アミノ酸は同一ではないことがわかりました。さらに、アミノ酸の光学異性体(L体、D体)についても解析し、L体のアミノ酸だけが培養細胞の生存・増殖に寄与すること、D体のアミノ酸は寄与しないが、L体の機能を阻害しないことを示しました(参考文献3)。
Eagleは同時期にHeLa細胞でも実験を行い、アミノ酸の要求性をL細胞と比較しました。L細胞での実験で特定された必須の13種類のアミノ酸は、HeLa細胞でも同様に必須でした。また、L体のアミノ酸だけが細胞培養に有効であることも同様でした。一方、HeLa細胞におけるアミノ酸の至適濃度はL細胞の1~3倍程度高いことが分かりました。さらに、ビタミン類、無機塩類、炭素源としてのグルコースなどについても考察し、最終的に27種類の化合物で構成されたL細胞およびHeLa細胞用の基礎培地(basal medium)の組成を完成させました(L細胞用とHeLa細胞用とで濃度が異なる)。そしてHeLa細胞用の基礎培地が、Basal Medium Eagle(BME、当社製品はこちら)として世界中で使用されることになりました。論文中にL細胞やHeLa細胞以外の細胞株をBMEで培養できることが記載されており、開発した培地の汎用性の高さが示唆されています。なお、BMEは血清の添加を前提とした基礎培地ですので、L細胞用の完全培地には5%のウマ血清を、HeLa細胞用の完全には10%のヒト血清を添加するように記載されています(参考文献4)。現在では、どちらの細胞もウシ胎仔血清を添加して培養されます。
[参考文献3]
Eagle H (1955) “The specific amino acid requirements of a mammalian cell (strain L) in tissue culture.” J. Biol. Chem. 214(2):839-52 (PMID: 14381421)
[参考文献4]
Eagle H (1955) “Nutrition needs of mammalian cells in tissue culture.” Science 122(3168):501-14 (PMID: 13255879)
クロスコンタミネーション(細胞汚染)にご用心
Eagleの論文(参考文献4)において、BMEで培養できることが確認されたとして以下の4種類の株細胞が記述されています。
- Eagle自身が樹立したヒト口腔類上皮癌由来の株細胞であるKB細胞(1955年発表)
- R. S. Changが樹立したヒト肝由来の株細胞。Chang Liver細胞(1954年発表)
- G. Henleが樹立したヒト胎仔小腸由来の株細胞。intestine 407細胞を指していると思われる(1957年発表)
- E. E. Osgoodが樹立したヒト白血病由来の株細胞。J-96とJ-111細胞のいずれかを指していると思われる(1955年発表)
ところがここには残念なオチがあります。後年に、これらの細胞がHeLa細胞に汚染されていたことが判明したのです。別の細胞との取り違えや、別の細胞の混入、別の細胞への置き換わりなどの汚染をクロスコンタミネーション(細胞汚染)と呼びます。上の事例においては、汚染されたタイミングが樹立当初からなのか(すなわち、これらの細胞株は最初から存在していなかったのか)、継代維持している過程で汚染されたのかはわかりません。クロスコンタミネーションが起きた事実は、BMEの功績を棄損するものではまったく無く、それは60年以上にわたる歴史によって証明されています。それでもあえてクロスコンタミネーションについて言及しているのは、研究者の日々の積み重ねが台無しになりうる、もっとも用心すべきトラブルの一つだからです。
クロスコンタミネーションを回避するために
細胞のクロスコンタミネーションを回避するためのポイントは大きく3点あります。
- 出どころが明らかな細胞を信頼できる機関から入手する
- クロスコンタミネーションを起こさない手技と管理を実践する
- 必要に応じて細胞認証や誤認細胞チェックを行う
1. 出どころが明らかな細胞を信頼できる機関から入手する
新しい細胞が必要なときには、公的機関が運営している細胞バンクからの入手、メーカーからの購入、研究者間の譲渡などの方法で入手することができます。必ず信頼性の高い機関や個人から細胞を入手してください。これはクロスコンタミネーションの回避だけでなく、さまざまな面で品質が担保された細胞を入手するために重要です。
2. クロスコンタミネーションを起こさない手技と管理を実践する
クロスコンタミネーションの原因の多くは培養操作中のヒューマンエラーだと考えられます。言い換えれば、適切な手技を身に着けて実践することにより、クロスコンタミネーションのリスクを最小限にすることができます。また、トラブルが発生した際に、トラブル発生以前の細胞ですぐに実験を再開できるように細胞ストックや実験記録を管理しておくことも重要です。
3. 必要に応じて細胞認証や誤認細胞チェックを行う
近年、細胞認証(cell authentication)というワードを目にすることが増えています。ヒト細胞株は試料を提供した一個人に由来するため、ヒト個人識別の手法によってゲノムレベルで細胞を特定することができます。また、過去に誤認細胞の疑いが報告された細胞のリストが国際機関International Cell Line Authentication Committee (ICLAC)によって更新されています。誤認細胞リストに掲載されている細胞の使用は避けてください。
当社が提供している細胞培養ハンズオントレーニングでは、細胞培養に関する基本的な知識と手技や、クロスコンタミネーションを回避する方法などを講義と実習の形式で詳しくお伝えしています。細胞培養をこれから始める方や、細胞培養の手技に不安がある方におすすめのトレーニングコースです。もしご興味がありましたら当社テクニカルサポート(jptech@thermofisher.com)までお気軽にお問い合わせください。
まとめ
- BMEの開発により、細胞の栄養要求性に関する研究が大きく進展しました
- BMEの開発やHeLa細胞などの樹立は同時期の研究成果であり、密接に関係しています
- 研究を台無しにしかねないクロスコンタミネーションを回避するためのポイントを押さえましょう
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