歴史から見る借家経営

江戸時代の借家

江戸時代の借家の歴史についてご紹介します。

戦国時代が終焉、江戸の町づくりが始まる

徳川家康公
▲徳川家康公

1603年(慶長8年)に、初代将軍「徳川家康」が征夷大将軍となったことで戦国の世は終わりを迎えました。現在の東京である江戸に幕府を開いた徳川家康は、「江戸城」(東京都千代田区:現在の皇居)を政庁の中心として城下町を形成。大名や商人、町人などが平和に暮らすための基盤を作り上げました。江戸時代の借家は、こうして江戸城下に住む人々のために考案され発展を遂げたのです。

土地の大半は武家が所有。町人は狭い土地での暮らしへ

江戸時代中期以降は、産業が著しく発達し、職人や商人の数が増え、江戸をはじめとする都市部では人口が急増。江戸時代は、幕府が直轄する江戸・京都・大阪の三都と、大名が支配する城下町があり、それらの土地は基本的に幕府や大名が所有していました。土地面積の大部分は武家が所有し、町人地の土地の面積は非常に狭いものだったのです。

幕府が置かれた江戸の町は、将軍や大名をはじめとする武士たちが居住する「武家地」、寺社や境内が所在する「寺社地」、町人たちが暮らす「町人地」の3つに大別されていました。このうち武家地は江戸の町の約6割の面積を占め、将軍や大名、家臣達が暮らします。残る4割の面積のうち半分の2割が寺社地。残りの2割の面積が町人地とされました。この頃「武家」と「町人」の人口は、ほぼ同じでしたが、そこで暮らす土地の面積には大きな隔たりがあったのです。

1721年(享保6年)、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の時代に行われた調査では、江戸の人口は100万人を超え、そのうち約半分の50万人が町人だったとされています。50万人の町人たちは、江戸全体の土地面積の約2割の中で居を構えることになり、狭い土地を工夫して使うことを考え、「長屋」という住居形式を生み出しました。この長屋が、現在の集合住宅の原型になったと考えられているのです。

町人でも土地の私有が認められ、富裕商人が台頭を始める

江戸では貨幣経済の発達や裕福な町人の台頭により、町人も土地の私有が認められるようになります。前述の通り、町人の土地は江戸にある面積の2割ほどしかありませんでしたが、富裕層の町人達は土地を所有し、自らの店と住居を構えるように。町人が所有を許された町人地には、「沽券地」(こけんち)と呼ばれる売買を許されている土地があり、町人はこの沽券地に土地を所有しました。沽券地の「沽」とは売買を、「券」は証文を意味し、この証文が付いた土地のことを「沽券地」と言います。これは現在の「不動産権利証」と同じ意味です。

町奉行所では、沽券に記された土地の所有者や面積が記された「沽券図」(現在の「公図」)が備えられ、不動産取引の権利を守る機能を備えていました。このころ、現在の「不動産売買」のような制度が発足し、不動産の売買や賃貸借の取引が発達していくことになります。

そして町人たちは私有した土地に店を構え、そこで商いを開始。前述の通り、町人地で私有化された土地は富裕商人のほか「地主」が所有していましたが、地主は所有する土地には住まず、家守という別の者に貸して賃料(地代)を得るようになります。
土地を借りた家守は、1棟の建物を区割りした住居形式の建物となる長屋の管理を任され、小商いをする町人や、庶民たちに貸すようになりました。これが現在の「賃貸経営」の前身であり、借家経営の始まりです。

江戸の土地面積と賃貸経営の始まり

長屋による借家経営が始まる

長屋は、1棟の建物を複数の住居に区割りしたもので、現在における集合住宅の原型とも言えます。長屋は雪隠(せっちん:トイレのこと)や井戸を共同で中央に配置し、風呂はなく、寝起きする部屋のみが区割りされている型式です。

表通りに面した区割りを「表長屋」(おもてながや:表店とも言う)と言い、主に日常生活に必要な品物を売る小商人(こしょうにん)が借りて、そこで商売をしながら暮らしていました。さらに通りに面さない奥の場所には、長屋を小さく区割りした「裏長屋」(うらながや)が建てられ、行商人や日雇い、物を作る職人など様々な人々が居住したのです。

《「表長屋」と「裏長屋」の配置》
「表長屋」と「裏長屋」の配置

※1…雪隠(せっちん)。現在のトイレ
※2…芥溜(ごみだめ)。ゴミ置き場

表長屋(表店)では様々な種類の商いが行われていた

長屋のうち、表通りに面した表長屋(表店)は、主に日常生活に必要な品物を売る小商人が借りて、そこで商売をしながら暮らしていました。

表長屋はほとんどが1階建てで、通りに面した1階の土間のスペースで商いを行い、奥に居間、台所があり、2階に寝室があります。間口は、2間(3.6m)で、奥行きが4間(7.2m)。瓦屋根で土蔵のしっかりとした造りでした。表長屋には、野菜を売る八百屋や鮮魚を売る魚屋、食器を扱う瀬戸物屋のほか、小間物や荒物(現在の雑貨)、駄菓子などを売る店が入り商いを行います。また、古着や女性の化粧品(紅、白粉)、辻駕籠屋(つじかごや:現在のタクシー)など、実に様々な店が商いをしていたのです。

《表長屋(表店)の平面》
表長屋(表店)の平面
  • 表長屋の店先の様子

    ▲表長屋の店先の様子

  • 土蔵造りの表長屋の様子(太秦映画村)

    ▲土蔵造りの表長屋の様子(太秦映画村)

一棟の建物を細かく区分けされた「裏長屋」

一方の「裏長屋」は、表長屋と違って非常に狭く、粗末な作りでしたが、店賃(たなちん:家賃)が安いため、庶民のほとんどがこの裏長屋で暮らしていました。

裏長屋は、表通りに面さない、日当たりの悪い奥に建てられ、1棟の建物を約3坪のスペースに細かく区分けをした住居。屋根や壁は板張りで、床も畳はなく板張りの上に筵(むしろ)を敷いたものでした。隣の長屋とは、薄い板張りの壁があるだけで、赤ん坊の泣き声や夫婦喧嘩などの声は丸聞こえ。その上、雪隠や井戸は共同で、風呂はありません。裏長屋には、農村で生活できなくなって江戸に流入した貧農や職人、奉公人、下級武士、行商人、野菜などを売り歩く棒手振り(ぼてふり)など、様々な人々が暮らしていました。

そして、この裏長屋には、「棟割長屋」と「割長屋」がありました。棟割長屋は屋根の棟のところで仕切り、両隣と背中合わせにも住人がいる型式のため窓がありません。棟割長屋1軒の平均的な大きさは、間口が9尺(2.7m)、奥行きが2間(3.6m)の約3坪と、非常に狭い部屋でした。

割長屋は間口が2間(3.6m)、奥行きが2間(3.6m)。土間を上がると6畳間があり、梯子(はしご)を掛けて上ると、物置のような「中2階」(点線の部分)が付属します。このように庶民の大半は、9尺2間(きゅうしゃくにけん)、3坪の棟割長屋で生活をしていたのです。

《「棟割長屋」 と 「割長屋」 の様子 》
  • ▼棟割長屋(三坪)棟割長屋(三坪)
  • ▼割長屋(四坪)割長屋(四坪)

庶民の大半が暮らした「9尺2間」の「棟割長屋」

庶民の大半が暮らしたのは、「9尺2間」の「棟割長屋」でした。この9尺2間とは、間口が9尺(2.7m)、奥行きが2間(3.6m)。畳約6枚分の広さで、坪数にするとわずか3坪ほどであり、現在のワンルームの半分にも満たない非常に狭いものでした。

入口をくぐると、玄関と台所が兼用の土間(どま)があり、片隅に竈(かまど)、流し(水道はなく水瓶)があり、一段上がって板の間があります。板の間は4畳半の広さ。畳が敷いてあるわけではなく、板張りの床に筵が敷いてある状態です。畳が置かれるようになったのは、江戸時代中期以降でした。 押し入れはないため、布団は畳んで部屋の隅に置き、衝立(ついたて)で隠します。4畳半の狭いスペースで布団を敷いて寝て、ご飯を食べ、内職などをしていました。

また、薄い板が壁になっているだけなので隣家の話し声や生活音は筒抜けとなり、プライバシーはないに等しい状態。この狭い空間に1人で住む場合もあれば、夫婦2人、家族3~4人が肩を寄せ合うように暮らすこともありました。こうした棟割長屋や割長屋などの裏長屋が明らかな安普請で建てられていたのには理由があります。当時、江戸城下では火事が多発しており、万が一燃えたとしても修繕に費用がかからないよう、柱は細く、壁は薄い物で作られていたのです。

《九尺二間の棟割り長屋》
九尺二間の棟割り長屋

共同生活が長屋のスタイル

裏長屋で暮らす庶民は、生活音が筒抜けに等しい生活空間でしたが、住人同士で互いに助けあっていました。隣の部屋から夫婦喧嘩が聞こえれば仲裁に入ったり、「味噌がない」と聞こえれば隣の住人がお裾分けし、夜の営みの声が漏れ聞こえれば翌朝の井戸端会議の話題にしたりと独自のコミュニティを形成。現在のような隣近所との交流が少ない住宅環境では考えられない暮らしです。

また井戸や雪隠、ごみ捨て場なども共同。井戸は地下水ではなく、桶を伝って水を引き、住人の洗顔、洗濯、炊事等に使われました。井戸は、長屋の住人が毎日顔を合わせる社交の場だったことから、この場所からもじって「井戸端会議」という言葉が生まれたと伝わります。

長屋の出入口に設けられた木戸
▲長屋の出入口に設けられた木戸

しかし雪隠の扉は、下半分が隠れる板があるだけで、女性が用を足すときは困ったようです。「惣後架」(そうこうか)という汲み取り式になっており、糞尿(ふんにょう)は瓶(かめ)に溜め、農作物の肥料として売られ、大家の収入源となりました。そしてごみは、穴を掘って板で囲った「芥溜」(ごみため)に捨て、一杯になったら町内の大芥溜に運び廃棄します。

長屋の出入口には「長屋木戸」と呼ばれる門があり、木戸の開閉は大家の仕事として、朝6時に開門し夜6時には閉門。長屋の防犯や治安維持の役割を担っていました。

裏長屋の店賃(家賃)は安かった

裏長屋の店賃(家賃)は非常に安かったため、江戸で暮らす庶民に広く受け入れられたと言います。江戸庶民の一般的な住居である裏長屋(9尺2間、3坪)の店賃(家賃)は、月400~600文。現在の貨幣価値で月8,000円から12,000円前後でした。

町人の稼ぎと比較すると、大工の稼ぎが一日500文(約10,000円)、左官や石工の職人で400文(約8,000円:金額は「江戸の卵は1個400円~モノの値段で知る江戸の暮らし~」丸田勲著/光文社新書を参考)程度。店賃の安い裏長屋は、人口急増で膨れ上がった江戸の町人を収容する住居形態として有効に機能したと言えます。

ちなみに、共同で使用する井戸の使用料は店賃(家賃)に含まれており、井戸の使用料は地主が一括して払いました。井戸はありましたが風呂がなかったため、住人は「湯屋」(ゆや:現在の銭湯)に行きます。湯屋の入浴料は6文(120円)です。

上方(大坂)の借家では「裸貸」が主流

ここまで、江戸の町を中心に借家の様子をご紹介してきましたが、江戸に次ぐ大都市、上方(大坂)でも長屋が建てられ、町人の多くは長屋で暮らしました。

大坂の長屋では「裸貸」(はだかがし)と呼ばれる方式が発達。裸貸とは、長屋の外側、つまり出入口や雨戸などは大家が用意し、室内の建具や畳、竈(かまど)、流しなどは、「店子」(たなこ:長屋の住人)が自分で調達し用意する方式となります。今で言う「スケルトン貸し」です。

大坂で裸貸が発達した理由は、「畳割」(たたみわり)という京畳の規格寸法(1,910㎜×955㎜)を基準に長屋が建てられたことによります。長屋の規格を畳割で規定したことから、畳、建具、障子、襖などの寸法も統一され、庶民は引越しをしても自前の畳や建具、襖などの活用を可能にしたのです。これにより大阪では、建具類の産業が盛んになりました。

「家守」は行政の一端も担っていた

長屋の地主は所有する土地に住むことなく、家守に長屋の管理全般を委任。そして家守は、長屋の管理を行うことで地主から報酬を得ていました。

長屋の主な管理の仕事は、店賃の集金、長屋の修理の指図などでしたが、他にも店子の身元保証、迷惑行為の対処、争い事の仲裁、道路の修繕、店子の病気やけがの救済、冠婚葬祭の差配など、実に様々な役目を担っていたのです。店子が犯罪や事件を起せば、身元保証人として町の奉行所に同行して連帯責任を取らされることもあり、「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」と言う慣用句は、こうしたことから来ています。

町触などが掲げられた高札場(写真は岐阜県)
▲町触などが掲げられた高札場(写真は岐阜県)

そんな家守は、長屋の管理人という仕事だけでなく、「町の行政」の一端を担う側面もありました。江戸時代、「町触」(まちぶれ)と言って町人に対して出された法令があり、これは町奉行が発令し町年寄、町名主、家守の順番に情報が伝わります。家守は長屋の住人となる店子へ町触の内容を読み聞かせ、遵守させることを徹底。家守は、長屋管理の仕事だけではなく、幅広い役割を担っていたことになります。

様々な仕事を行う家守の収入源は、地主からもらう長屋の管理に対する報酬のほか、長屋の雪隠に溜まる糞尿を、江戸近郊の農家に売ることなどがありました。人間の糞尿は農作物の肥しなどに利用されるため高く売れ、家守の大きな収入源のひとつとなっていたのです。

江戸時代の町並み

現在の賃貸マンション・アパート、貸店舗付き住宅などは、まさに先人達が築き上げた「借家経営」による長屋の暮らしが根付いた結果と言えます。江戸時代に作られた長屋の住居形態は、こののちも建築技術の進歩や賃貸借事業の発達と共に、進化しながら続いていくこととなるのです。

《参考文献》
「不動産業の歴史入門」蒲池紀生著、住宅新報社
「江戸時代の家」大岡敏昭著、水曜社
「お江戸の素朴な大疑問」中江克己著、PHP研究所
「江戸の町と暮らしがわかる本」江戸歴史研究会著、メイツ出版
「見取り図で読み解く 江戸の暮らし」中江克己著、青春出版社
「江戸の卵は1個400円~モノの値段で知る江戸の暮らし~」丸田勲著/光文社新書

《参考サイト》
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」
江東区深川江戸資料館

平安~江戸時代の暮らしや文化
刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」にて、平安~江戸時代の暮らしや文化についてご紹介しています。

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