太平洋戦争開戦80年 女性作家ら27人がつづる「当時」 「少女たちの戦争」刊行

2021年12月6日 07時12分
 太平洋戦争の開戦(一九四一年)から八日で八十年。先月刊行された『少女たちの戦争』(中央公論新社編、一四三〇円)は、戦時下に少女時代を送った作家ら二十七人が、当時をつづったエッセーを収める。非常時が日常となった日々を少女たちはどう生きたのか。そうした視点から戦争を伝える一冊だ。 (北爪三記)
 二十七人は、開戦時に二十歳未満だった瀬戸内寂聴さんや向田邦子さん、佐野洋子さんら。
 佐藤愛子さんの「『サヨナラ』がいえなかった」は、女学校の同級生と旅行中、一瞬言葉を交わした若い兵隊との別れ際の心情をつづる。竹西寛子さんの「一個」は、小学校で席が近かった女の子が、ゆで卵一個というお弁当のおかずをうれしそうにしていた姿が共感を持って描かれる。
 河野多恵子さんの「半年だけの恩師」は、旧制の女子専門学校で教わった若い女性の先生の思い出。戦時下であっても<少しでも豊かな心を養うようにしてください>と英米詩の魅力を説き、動員先の軍需工場で自身の遅刻をかばってくれた、その人柄を懐かしむ。いずれも鮮やかに光景が浮かび、心を揺さぶられる作品ばかりだ。
 「戦場から一番遠いところにいた少女が、日常をどう見ていたのか。その視点で戦争をとらえることは、あまりなかったんじゃないかと考えたんです」。田嶋萌里(もえり)さん(37)とともに本書を担当した太田和徳さん(53)が、編集の意図を説く。
 念頭にあったのは、アニメ映画やドラマにもなった、こうの史代さんの漫画『この世界の片隅に』のエッセー版。集めた作品は、必ずしも戦争をテーマにしたものばかりではなく、当時の生活の細部が描かれた作品を重視したという。
 「特に十代の人たちに読んでもらいたい。自分と同世代だった当時の少女たちのことを知ってもらえたら」と話す。

◆いま10代の皆さんへ 樋口恵子さんに聞く「当時」 学童疎開 そして兄の死

 二十七人と同じく、戦時下に少女時代を過ごした評論家の樋口恵子さん(89)=写真=に当時の話を聞いた。
 ◇ 
 太平洋戦争が始まったのは、東京・目白の国民学校三年生の冬でした。リベラルな雰囲気だった学校が、あれよあれよという間に小さな兵営と化した。毎月八日の大詔奉戴日は、朝礼で国旗掲揚を行うとか、戦地の兵隊さんをしのんでおかずは梅干し一個の日の丸弁当になっていきます。
 六年生の時に学童疎開で長野県へ。上林温泉の上林ホテルが宿舎に割り当てられました。ひもじくてつらい思いはたくさんしたけれど、住環境はすばらしかった。水洗トイレだし、顔を洗うにも洗濯するにも、ひねればジャーと温泉が出てくるのです。
 それまで友達のことは、家庭環境や勉強、スポーツの面ぐらいしかわからなかったけれど、二十四時間一緒に暮らすと、芸事が好きな人とか、自分でセーターをほどいて編み直しちゃう人とか、さまざまな才能を発見しました。
 各組ごとに寮母さんがいて、私の組の寮母さんは女学校を出たばかりで十八、十九歳のお嬢さん。寮母さんの中で仲間外れにされていました。組のみんなで慰めようと、プログラムを立てて、夕食後の自由時間に呼んで出し物を披露したこともありました。
 三学年上の兄は、小学生で鴎外、漱石、藤村を読破しているような頭の良い少年でした。だけど、どんどん時局に批判的になって、開戦一年前、兄が五年生の時、軍国主義思想の先生が担任になると、たちまち反戦少年のレッテルを貼られてしまいました。中学受験で希望の都立(府立)中学に落ち、私立校へ進み、一学期を終えて編入試験で都立中学に合格しました。
 中学では理解者の先生もいました。先生が宿直の時、うれしそうに自転車で出かけて行って、夜遅くなるまで話し込んだり。しばらくして、不合格になった時の内申書の内容が分かりました。「批判的精神のみ強く、時局に対する理解浅し」。非国民と言わんばかりの内容でした。
 兄は、中学では小学校高学年の時よりはるかにハッピーな生活でしたが、勤労動員で体を壊し、敗戦の年に急性結核性髄膜炎になって十五歳で死んだのです。私は少年でなくて少女であることにほっとしていました。

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