<のぼりくだりの街>岡本3丁目の坂(世田谷区) セレブ好みの田園風景

2022年5月4日 07時03分

台地と多摩川を直結する岡本3丁目の坂。眺めはいいが、日常生活はきつそう=いずれも世田谷区で

 「岡本3丁目の坂」は世田谷区の南西部、武蔵野台地から多摩川に向かって下る坂だ。戦後にできた道路であり、正式な名前はまだない。地元では「急坂(きゅうざか)」と呼ばれている。
 この坂は、台地を多摩川が削ってできた「国分寺崖線」の一部である。高低差約20メートルで、水平距離は100メートル程度。20%の急勾配で、角度は10度を超える。車は下りの一方通行。あまりに急なので、脇に歩行者用の階段がついている。雪が積もったらスキージャンプができそうだ。

坂の正面に富士山が見える時もある

 坂の西は多摩川で、近くに眺望をさえぎるものがない。空気が澄んだ時には富士山がよく見え、東京富士見坂の一つに選ばれている。
 高台の住宅地・岡本の中でも、崖や坂の真上のあたりは、立ちならぶ一戸一戸の敷地が広大で、都内有数の邸宅街といえる。駅から遠く、交通は不便だけれども、普段電車に乗らない本物のセレブには関係ないのだ。
 眺めに目をつけたのは、現代の不動産業者が初めてではない。明治時代の末から、政財界の大物が別宅を構えている。まず三菱財閥の岩崎家。墓所としてこの地を選び、後に岩崎家のコレクションを保管する静嘉堂文庫が高輪から移転してきた。曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)など国宝7点を所蔵している。
 聖ドミニコ学園の敷地には松方正義別邸があった。玉川幼稚園は高橋是清別邸だった。鮎川義介、久原房之助らも居宅を構えた。現存し、公開されているのは、小坂家別邸(住所は瀬田四丁目、戦後は本邸となった)。長野出身の政治家・実業家小坂順造の家だ。

岡本公園民家園では毎日いろりで火をおこす

 とはいえ、そういった名のある屋敷は、岡本のごく一部。岡本村は江戸から明治時代を通じて戸数50ほどの小さな村落だった。雑木林や原っぱと畑が混在し、かやぶき屋根の農家が点在していた。坂を下ると鎌田村や大蔵村で、小規模な水田があり、六郷用水(現丸子川)が流れ、水車があちこちにあった。
 現在、坂の下には岡本公園民家園があって、隣村の瀬田から移築された江戸時代後期の農家「旧長崎家主屋」を中心に、昔の様子を味わうことができる。特徴は「生きている古民家」。いろりでは毎日火をおこしている。「燻蒸(くんじょう)と乾燥の効果があり、かやぶき屋根を長持ちさせることができるのです」と、世田谷区立郷土資料館の松浦瑛士学芸員は話す。「岡本の特徴を一言でいうと、やはり『国分寺崖線と坂』になります。『坂が多いところだから、かわいい娘は岡本にやるな』といわれていたそうです」
 坂の下の民家園と高台の住宅地をつなぐのが岡本八幡神社だ。急な石段の手前にある灯籠は、ミュージシャンの松任谷正隆・由実夫妻の寄進らしく、名前が刻まれていた。
 ちょろちょろと流れる丸子川の水はきれいで、小さな魚が泳いでいる。都会には珍しい深い緑の中、江戸時代から現代まで、建築を中心に重層的な歴史を感じさせる街である。

◆玉電砧線の廃線跡

 二子玉川駅から岡本方面に歩く時、玉電砧線の廃線跡の遊歩道を通ってみたい。春はとくに花と緑が心地よい。
 砧線は多摩川の砂利採取のため、二子玉川から砧本村まで1924年に開通した2キロ余りの鉄道で、69年まで走っていた。
 もし廃線にならず、小田急のどこかの駅まで延伸されていたら、東急沿線と小田急沿線を短絡する貴重な路線となり、世田谷区内の交通事情を改善していただろう。岡本あたりの街の姿も、今とはまったく違ったものになっていたのではないだろうか。
 文・吉田薫/写真・佐藤哲也、吉田薫
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