昭和の授業百景 あの頃出会った個性派教師たち

2021年3月7日 07時29分

椎名誠さんの母校、幕張中学校の授業風景(本文とは直接関係ありません)=1965年、千葉市花見川区、「写真が語る 千葉市の100年」(いき出版)より

 中学のクラス担当教師はフジモトと言った。理科の担任だからか医者が着るような白衣をいつも着ていてテキパキとした喋(しゃべ)り方をした。
 それは性格にもあらわれていて、授業などもその教師の時間になるとホームルームなのに最初からクラスの生徒全員がなんとなく緊張させられた。
 それはその教師の授業のやりかたに関係していた。たとえば最初の頃の生物の授業などのときにクラスの一人の生徒にいきなり質問したりする。唐突な質問だったが、慣れてくるとその日やろうとしている授業にモロに関係するものだった。
 たとえば窓ぎわに座っている女生徒に「君は窓のすぐ外の花壇に今咲いている花をいくつ言えるかね」というようなものだった。
 名ざしされた生徒はやや慌てる。
 いくつか答えるが自信なさげだ。
 教師はくわしく知っていた。
 昨日あたり見て確認していたのだろう。
 こういうやりとりがあるとあまり花に興味のない男子生徒などはほぼ全滅だ。知っていてもその土地の風土として男が花に興味を持っているなんて………。という空気が流れた。「花や草はどうやって栄養をとっているんだろう」などという問い掛けから、その日フジモト教師の授業がはじまった。最初から油断ならないのだ。
 小学校の授業とはずいぶん違っていた。そしてちゃんと教科書と教師の語っていることに意識を集中していればこんな授業も面白くなっていった。教師と生徒が友達同士のようになってしまっている小学校の場合とずいぶん違った時間になった。
 ただし全部の教師がそういうわけではなかった。ミヤザキという小柄な中年の教師は社会の担当だったが、これは教科書を着実に読んでいくもっとも力抜けのする授業をやっていた。教壇の横に立っての朗読である。授業は世界の歴史からはじまったが、教科書を読むだけだったら自分でもできるわけで面白いことは何もない。その一方で「ミヤザキの授業は楽しみだ」という生徒もけっこういた。
 教科書を読みながら教室をグルグル回ってくるのならまだしも、教壇の横から動かないで朗読しているだけなのだから、教師本人にやる気がないのはたしかで、そういうふうにして毎日過ごして給料を貰(もら)っているのだから教師というのは楽な商売だ。ただし自分の人生に夢や誇りをどれほど持っているのだろうか。
 これは今になって当時のことを思いだしての考えで、その頃はほかの多くの生徒と同じように机の上に各自好きなものを並べて勝手に「自由時間」をこしらえてすごせばいいのだから「ミヤザキの授業は楽しみだ」という生徒がけっこういたのも無理はない。
 晴れている日のミヤザキの授業では、ぼくは窓から校庭や雲を眺めて自由時間を過ごすことが多かった。 (作家)

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