明治時代の重要用語

樺太・千島交換条約 
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「樺太・千島交換条約」(からふと・ちしまこうかんじょうやく)とは、1875年(明治8年)に、ロシア帝国との間で結ばれた条約です。1855年(安政2年)の「日露和親条約」では、両国の国境を、択捉島(えとろふとう)・得撫島(うるっぷとう)の間に引き、樺太島(からふととう)については、両国民の雑居の地とすると定め、国境の決まりを設けていませんでした。しかし、樺太・千島交換条約により、樺太島に関するいっさいの権利をロシア帝国へ譲渡。代わりに千島列島(ちしまれっとう)を、日本が領有することが決まったのです。この日本・ロシア帝国との国境問題は、その後も様々な変遷があり、現在も「北方領土問題」(ほっぽうりょうどもんだい)として揺れています。

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「樺太・千島交換条約」(からふと・ちしまこうかんじょうやく)とは、1875年(明治8年)に、ロシア帝国との間で結ばれた条約です。1855年(安政2年)の「日露和親条約」では、両国の国境を、択捉島(えとろふとう)・得撫島(うるっぷとう)の間に引き、樺太島(からふととう)については、両国民の雑居の地とすると定め、国境の決まりを設けていませんでした。しかし、樺太・千島交換条約により、樺太島に関するいっさいの権利をロシア帝国へ譲渡。代わりに千島列島(ちしまれっとう)を、日本が領有することが決まったのです。この日本・ロシア帝国との国境問題は、その後も様々な変遷があり、現在も「北方領土問題」(ほっぽうりょうどもんだい)として揺れています。

樺太・千島交換条約の背景

松前藩による「北方四島」の統治

日本が、北方四島(国後島[くなしりとう]・択捉島・色丹島[しこたんとう]・歯舞群島[はぼまいぐんとう])の存在を発見し、調査を開始したのは、ロシアよりも早く1635年(寛永12年)のこと。当時、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた北海道に置かれた松前藩(まつまえはん)は、現在の北海道全島及び千島列島・樺太島を含む蝦夷地方の調査を行いました。

1644年(正保元年)に江戸幕府が作成した日本地図「正保御国絵図」(しょうほおくにえず)には、「くなしり」・「えとろふ」・「うるふ」などの地名がはっきりと記載されています。そして、多くの日本人がこの地域に渡航。松前藩は、17世紀初頭から北方四島の統治を徐々に確立していきました。

一方、ロシア帝国が千島列島の探検を開始したのは、18世紀初頭以降。すでに松前藩が、択捉島、及び択捉島以南の島々に番所を置いて北方四島を統治し、外国の侵入を防ぐことを行っていたので、ロシア帝国も択捉島の北にある得撫島を、自国領土の南限と認識していました。

その後、ロシア帝国が再々この方面に進出し、地域住民との間に衝突がたびたび起こるようになると、江戸幕府は自ら北方の島々の統治へ本格的に取り組む姿勢を見せます。まず、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に「最上徳内」(もがみとくない)らを調査に派遣。

この最上徳内は、江戸時代末期に長崎郊外に「鳴滝塾」(なるたきじゅく)を開き、日本人に最新医学を教えた「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が最も信頼し、敬愛した日本人とされます。「間宮林蔵」(まみやりんぞう)、「近藤重蔵」(こんどうじゅうぞう)と並び、日本の北方探検に大きな役割を果たした人物です。

特に最上徳内による蝦夷地や樺太の地図は、非常に精度の高い測量法や、豊かな天文学の知識に裏打ちされた物でした。シーボルトは、最上徳内が作成した地図を見て感嘆したと伝わります。最上徳内は、国後島から択捉島に渡り、ロシア帝国の南下状況について細部までしっかりと調査。さらに得撫島に上陸すると、得撫島より北の千島列島における現況の他、近い将来の変化に関しても推察して、江戸幕府に報告しました。

江戸幕府は、1798年(寛政10年)には、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)という標柱を択捉島に立て、日本の領土であることを示します。

日露和親条約

1855年(安政2年)、伊豆国下田(いずのくにしもだ:現在の静岡県下田市)において「日露和親条約」が締結。この条約で、初めて日本とロシア帝国の国境が定められました。

千島列島の境界は、どちら側が先に発見したかをもとに、択捉島と得撫島の間とすることを確認。つまり、日本の領土は択捉島から南、ロシア帝国の領土は得撫島から北の島々として正式に定めたのです。

また、樺太島は引き続き、両国民の混住の地として定められました。この条約に対し日本とロシアは、平和的・友好的な形で合意しています。

明治時代初期の日本の外交課題

このような流れのなか、明治時代に入った日本は当初、大きく3つの外交問題を抱えていました。「欧米列強との不平等条約の改正」、「近隣外交の構築」、そして「国境の画定」です。このうち、国境の画定において最大の交渉相手が、安全保障上でも最大の脅威であったロシア帝国でした。

樺太・千島交換条約の概要

千島列島全域が日本領に

樺太・千島交換条約による国境

樺太・千島交換条約による国境

1875年(明治8年)に、「樺太・千島交換条約」が日本とロシア帝国の間で結ばれます。

明治政府は、樺太島の統治にも乗り出していましたが、財政的に難があり、またロシア帝国が積極的に南下政策により、樺太島へ多くの人を移住させる行動に出ていたため、日本は樺太島を放棄し、北海道開拓に主力を注ぐべきだという意見が強まっていたのです。

この樺太島放棄の発案者は、開拓使(かいたくし:北海道開拓の管轄を担う省庁)次官の「黒田清隆」(くろだきよたか)でした。両国民が混住する雑居の地という樺太島のあいまいな形は、両国民の間での紛争事件を発生させる要因にもなっており、この点でも何らかの解決策が求められていたのです。

ロシア帝国との交渉にあたったのは、中露(ちゅうろ:清[17~20世紀初頭の中国王朝]・ロシア帝国)公使(こうし:大使に相当)を務めていた「榎本武揚」(えのもとたけあき)。榎本武明は、特命全権公使としてロシア帝国のサンクトペテルブルクに赴き、「樺太・千島交換条約」にサインします。日本は、樺太島の権利いっさいを放棄する代わりに、それまでロシア領であった得撫島から北の島々も含め、千島列島全域を日本の領土にするということで合意したのです。

実は、この樺太・千島交換条約には、日本に譲渡される千島列島の島名ひとつひとつが挙げられていますが、列挙されているのは、得撫島以北の18の島々であり、そこに、択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島の北方四島の名は記載されていません。

この事実が、日本は現在、千島列島とは明確に区別された北方四島が日本以外の領土になったことは一度もなく、日本固有の領土であることを示していると主張しています。

樺太・千島交換条約のその後

ポーツマス講和条約

ポーツマス条約による国境

ポーツマス条約による国境

1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月にかけて起こった「日露戦争」(にちろせんそう:日本とロシアとの戦争)が終わり、戦後処理として、1905年(明治38年)に日本・ロシア帝国の間で「ポーツマス講和条約」が結ばれます。

このポーツマス講和条約では、日本は、樺太(サハリン)の北緯50度以南をロシアから割譲されることになりました。

これにより、1905~1945年(明治38年~昭和20年)までは、北緯50度線を境に、樺太島の南半分を「樺太」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシア帝国、及びソビエト連邦が領有することになったのです。

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