江戸時代の重要用語

親藩大名 
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1603年(慶長8年)、江戸幕府を開いた「徳川家康」(とくがわいえやす)は、200を超える諸大名を江戸幕府の下に従えます。そして徳川家との関係の深さにより大名を3つに分類し、領地の割り当てを工夫することで全国を統治しました。「親藩大名」(しんぱんだいみょう)はそのひとつで、徳川家と親戚関係にある大名のこと。なかでも徳川家康の子を祖先とする「徳川御三家」(とくがわごさんけ)は江戸幕府将軍を輩出できる家系として敬われていました。とは言え、親藩大名が江戸幕府の政治に口出しすることは許されず、のちに江戸幕府の力が衰えると、親藩大名のなかからも「討幕派」(とうばくは:江戸幕府を倒そうとする派閥)に味方する者が現れ、江戸時代の幕引きを後押ししたのです。

江戸時代の重要用語

親藩大名 
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1603年(慶長8年)、江戸幕府を開いた「徳川家康」(とくがわいえやす)は、200を超える諸大名を江戸幕府の下に従えます。そして徳川家との関係の深さにより大名を3つに分類し、領地の割り当てを工夫することで全国を統治しました。「親藩大名」(しんぱんだいみょう)はそのひとつで、徳川家と親戚関係にある大名のこと。なかでも徳川家康の子を祖先とする「徳川御三家」(とくがわごさんけ)は江戸幕府将軍を輩出できる家系として敬われていました。とは言え、親藩大名が江戸幕府の政治に口出しすることは許されず、のちに江戸幕府の力が衰えると、親藩大名のなかからも「討幕派」(とうばくは:江戸幕府を倒そうとする派閥)に味方する者が現れ、江戸時代の幕引きを後押ししたのです。

親藩大名とは

徳川家と血のつながった大名

1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍を打ち破った徳川家康は、西軍側の大名から630万石にものぼる領地を没収。それらの土地を、自らに味方した東軍の大名達に分け与えました。

また、徳川家一族の者や、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えてきた家臣達の多くを新しく大名に任命。徳川家一族は「親藩大名」、関ヶ原の戦い以前からの家臣は「譜代大名」(ふだいだいみょう)と名付けて厚遇し、江戸の周辺、関東と関西を結ぶ重要な地域にある「藩」(はん:1万石以上の大名が支配する行政組織)の藩主(はんしゅ)としました。

譜代大名には江戸幕府の要職に就く権利が与えられましたが、反対に、関ヶ原の戦い以後に徳川家に仕えた大名は「外様大名」(とざまだいみょう)と呼ばれ、九州、東北などへの「国替」(くにがえ:領地の変更)を命じられて江戸から遠ざけられたのです。もちろん、江戸幕府の要職に就くことも許されませんでした。

大名の種類(親藩大名・譜代大名・外様大名)

大名の種類(親藩大名・譜代大名・外様大名)

親藩大名と徳川御三家

江戸幕府将軍家にとっての親藩大名は、最も信頼のおける大名である反面、強い勢力を持って江戸幕府将軍家を脅かす可能性もあり、それを抑止しておく必要もありました。

そこで親藩大名には、江戸幕府の政治には関与させず、それぞれの領地から外様大名の動きを監視する役割を与えたのです。

また、親藩大名のなかでも徳川家康の息子を家祖(かそ:その家の祖先)とする下記3つの徳川家は、徳川将軍家に継嗣(けいし:跡継ぎ)が途絶えた際に、次期江戸幕府将軍を出す使命が与えられ、特別に「徳川御三家」と呼ばれました。

【徳川御三家とその家祖】

  • 尾張徳川家(おわりとくがわけ)/「徳川義直」(とくがわよしなお:徳川家康の九男)
  • 紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)/「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ:徳川家康の十男)
  • 水戸徳川家(みととくがわけ)/「徳川頼房」(とくがわよりふさ:徳川家康の十一男)

紀州徳川家からは、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)、江戸幕府第14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の2人、水戸徳川家からは、最後の江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)を輩出しています。

しかし、尾張徳川家と折り合いが悪かった徳川吉宗は、尾張徳川家から江戸幕府将軍が出ることを嫌い、自らの家系より「田安家」(たやすけ)、「一橋家」(ひとつばしけ)、「清水家」(しみずけ)を「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)として新たに設置。御三家に次いで将軍を出す家柄と決めてしまったため、結局、徳川御三家筆頭とされた尾張徳川家から江戸幕府将軍が出ることはありませんでした。

幕末の親藩大名

討幕派となった親藩大名

巧妙な大名統制が功を奏し、江戸幕府は「鎖国政策」(さこくせいさく:外国との行き来を制限する政策)の下で250年以上もの長きにわたり安定した政権を築きました。しかし1853年(嘉永6年)、「マシュー・ペリー」(アメリカの東インド艦隊司令長官)の軍艦が来航し、開国を要求。

恐れをなした江戸幕府と譜代大名に対し、尾張藩水戸藩などの親藩大名は、外様大名の薩摩藩土佐藩などとともに「攘夷」(じょうい:外国を討ち払うこと)を唱え、弱腰の江戸幕府を見限ったのです。1867年(慶応3年)、ついに「大政奉還」(たいせいほうかん:政権を江戸幕府から天皇家へ返上すること)により、江戸幕府が終了。

薩摩藩、長州藩を中心とする明治政府が樹立され、「明治維新」(めいじいしん)が成し遂げられました。徳川御三家をはじめ親藩大名は、江戸幕府将軍家の親戚筋でありながら外様大名、下級武士達が主導した討幕派に味方し、新しい時代を切り拓く一端を担ったのです。

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