室町時代の重要用語

守護大名と戦国大名の違い 
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「大名」(だいみょう)とは、平安時代から江戸時代にかけて使用された身分を表す言葉です。もともとは平安時代に、大きな名田(みょうでん:私有の田地)を所有していた人のことを言いましたが、鎌倉時代には有力武士のこと、室町時代には守護大名(しゅごだいみょう)のこと、戦国時代には戦国大名のこと、江戸時代には10,000石以上の藩主のことを大名と呼ぶよう変化しました。「守護大名」と「戦国大名」の違いについて、詳しくご紹介します。

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守護大名と戦国大名の違い 
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「大名」(だいみょう)とは、平安時代から江戸時代にかけて使用された身分を表す言葉です。もともとは平安時代に、大きな名田(みょうでん:私有の田地)を所有していた人のことを言いましたが、鎌倉時代には有力武士のこと、室町時代には守護大名(しゅごだいみょう)のこと、戦国時代には戦国大名のこと、江戸時代には10,000石以上の藩主のことを大名と呼ぶよう変化しました。「守護大名」と「戦国大名」の違いについて、詳しくご紹介します。

守護大名と戦国大名の定義

守護大名とは

主な守護大名と領地(1360年頃)

主な守護大名と領地(1360年頃)

鎌倉幕府のしくみ

鎌倉幕府のしくみ

守護大名」とは、室町時代前期に、室町幕府から「守護」の職に任命された大名のことです。

守護とは、もともとは鎌倉幕府の組織体制のひとつで、各国にひとりずつ任命された軍事的行政官のことを言いました。守護は、関東の有力御家人の中から任命され、軍事・警察権を中心に、治安の維持と警備にあたったのです。この鎌倉幕府の組織体制は、南北朝時代、室町時代にもほぼ踏襲され、守護も世襲されました。

さらに室町時代になると、守護の権限が拡大します。室町幕府は、力を付けた地方武士をも統括する守護を重要視し、「半済令」(はんぜいれい:荘園・公領の年貢半分を守護が徴収すること)や「守護請」(しゅごうけ:守護が国衙領[こくがりょう]や荘園の年貢を請け負う制度)などの権限も与えました。守護は、自分の権限を利用して、荘園や公領を侵略。それを地方武士に分け与えたため、守護と地方武士に上下関係が生まれて守護が大名化し、守護大名と呼ばれるようになったのです。

なお、守護大名が地域的な支配権を確立して作り上げた支配体制を「守護領国制」(しゅごりょうごくせい)と言います。有力な守護大名としては、細川氏・山名氏・大内氏・土岐氏など。ともに数ヵ国の守護をかね、細川氏は9ヵ国、山名氏は11ヵ国を領していました。

細川勝元

細川勝元

山名宗全

山名宗全

大内義隆

大内義隆

土岐頼芸

土岐頼芸

戦国大名とは

主な戦国大名と領地(1560年頃)

主な戦国大名と領地(1560年頃)

「戦国大名」とは、戦国時代に守護大名がさらに力を付けて戦国大名へと進化した大名、または守護大名に代わって台頭した大名のことです。なお、戦国時代とは、室町時代後期の1467年(文正2年)に起きた「応仁の乱」から、諸説ありますが、室町幕府が滅亡する1573年(元亀4年)までのことを言います。

応仁の乱とは、将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の継嗣問題に、守護大名の「細川勝元」(ほそかわかつもと)と「山名宗全」(やまなそうぜん)、管領(かんれい:将軍を補佐する将軍に次ぐ役職)の畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督争いの対立が絡んで争われた11年に及ぶ内乱のこと。

この結果、細川軍と山名軍の両将が亡くなり、和議が結ばれたものの、京都の街は荒れ果て、将軍の権威は失墜し、室町幕府の権威は弱体化しました。

これにより、幕府の権威によって地位を保っていた守護大名の支配力も衰え、「守護代」(しゅごだい:守護の職務を代行する役人)や「国人」(こくにん:有力な名主)など、実力のある家臣が主家から実権を奪う「下剋上」(げこくじょう:身分の低い者が身分の高い者を倒し地位を築くこと)の世となったのです。

なお、戦国大名には、大きく4つのタイプがあります。

  1. 守護大名が転化した戦国大名
    今川義元、武田信玄、山名宗全、大友宗麟、島津義弘など
  2. 守護代が主家に代わった戦国大名
    上杉謙信、朝倉義景(あさくらよしかげ)、三好長慶(みよしながよし)など
  3. 在地の国人層から台頭した戦国大名
    徳川家康織田信長、浅井長政、宇喜多秀家、毛利広元、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)など
  4. 1代で大名となった戦国大名
    北条早雲、斎藤道三など。
今川義元

今川義元

上杉謙信

上杉謙信

徳川家康

徳川家康

北条早雲

北条早雲

守護大名と戦国大名の違い

違いと類似点

守護大名と戦国大名の違いは、まず時代です。守護大名とは、室町時代初期における大名の呼び名。一方、戦国大名とは、室町時代後期(戦国時代)における大名の呼び名です。

また、守護大名は、室町幕府によって任命された職名だったのに対し、戦国大名も室町幕府によって守護に任命されてはいましたが、自分の実力によって、独立的国家を実現させた大名と言うことができます。

なお、戦国大名は、家臣団の組織化、分国法の制定、検地の施行、城下町の建設、商工業の保護統制などを行いました。領国統治、軍事力強化に努め、領国の拡大を求めて激しい闘争を繰り広げたのです。

最強の戦国大名とは

織田信長

織田信長

織田信長

最強の戦国大名と言えば、やはり室町幕府を滅ぼし、全国を統一した織田信長がふさわしいと言えます。

織田信長は、1534年(天文3年)生まれ。父は「織田信秀」(おだのぶひで)です。祖父は「織田信定」(おだのぶさだ)で、尾張国(現在の愛知県)の守護大名・斯波氏の守護代「織田氏」の庶流という家柄でした。

まず、父・織田信秀が尾張南部を支配。1551年(天文20年)に父・織田信秀が没して家督を継ぐと、1559年(永禄2年)には「岩倉城」(いわくらじょう:現在の愛知県岩倉市)の「織田信賢」(おだのぶかた)を破り、尾張国を統一します。

1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」で駿河国(現在の静岡県)の今川義元を倒し、1562年(永禄5年)三河国(現在の愛知県)の徳川家康と同盟。1567年(永禄10年)美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏を滅ぼし、翌年「足利義昭」(あしかがよしあき)を擁して入京しました。

また、1570年(永禄13年/元亀元年)「姉川の戦い」で浅井・朝倉両氏を破り、1570年(永禄13年/元亀元年)「延暦寺焼き打ち」、1571年(元亀2年)「一向一揆」、1573年(元亀4年/天正元年)足利義昭を追放して室町幕府を滅亡。1575年(天正3年)「長篠の戦い」で武田軍を破り、1576年(天正4年)に「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)を築城しました。1582年(天正10年)、「明智光秀」に裏切られ「本能寺の変」で自刃したのです。

このように、織田信長は守護代の庶流というあまり高くない身分の家に生まれましたが、「天下布武」(てんかぶふ:戦のない天下泰平の世をつくる)という夢を掲げて、家臣を牽引。道半ばにして非業の死を遂げたものの、その夢が「豊臣秀吉」に引き継がれて実現されました。

戦のない平和な世をつくりたいという夢を唱えた男。織田信長は、まさに戦国最大の器量を持った、最強の大名だったと言えるのです。

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