書跡

安土桃山時代

とよとみひでよし ほうじょうしあてせんせんふこくじょう 豊臣秀吉 北条氏宛宣戦布告状 /ホームメイト

豊臣秀吉 北条氏宛宣戦布告状

本書状は「豊臣秀吉」が、小田原の「北条氏」(小田原城を本拠として関東一円を支配していた大名)を征伐するために、「北条氏直」(北条左京太夫)へ宛てて書いた宣戦布告状です。

天下統一の動きが「織田信長」から「豊臣秀吉」へ受け継がれたのち、豊臣秀吉は、「関白任官」、「九州平定」などを経て徐々に勢力を強めていきました。そんな折に豊臣秀吉は、真田領にある上野「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡みなかみ町に築かれた城)を、北条氏が攻撃したという知らせを「真田昌幸」から受けます。

豊臣秀吉は、かねてから北条氏に「沼田領の3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む残りの3分の1を真田氏に与えるから、上洛するように」という旨の「沼田裁定」を下していましたが、沼田領全域の制覇をもくろんでいた北条氏にとって、名胡桃城を真田氏に奪われることは納得のできることではなく、北条氏が豊臣秀吉の裁定を承諾することはありませんでした。

そして、1589年(天正17年)、北条氏の重臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が独断で名胡桃城を攻撃、占拠。このことが豊臣秀吉の耳に触れ、「惣無事令」(そうぶじれい:豊臣秀吉が敷いた法令。大名間の私闘を禁じるというもの)に違反したとして、小田原征伐の発端となります。

1589年(天正17年)11月24日、名胡桃城が占拠されて僅か3日後に豊臣秀吉は、5ヵ条からなる本宣戦布告状を、裏切りを行なった北条氏だけではなく、北条氏側に加担する恐れのある全国の諸大名へも送りました。

本宣戦布告状には、「(北条氏が)度々の上洛命令に従わなかったことを不問としていたのは、徳川家康のとりなしがあったためであるが、北条氏は、沼田裁定を承諾せず、上洛を受け入れなかったばかりか、名胡桃城を奪ったことは約定違反であり、大罪にあたる。その所業を関白豊臣秀吉が、(天道に背いた北条氏を)勅命にて征伐する。年が明け次第、北条氏直、氏政両名の首をはねる」との旨が記されています。

北条氏は、本書状を受け取ったのち、「名胡桃城占拠に自分は関与しておらず、家臣が独断でやったことである」と言う弁明書を送り、さらに重臣「石巻康敬」(いしまきやすまさ)を上洛させて豊臣秀吉へ弁明させますが、豊臣秀吉は聞き入れず、小田原征伐が開始されました。

豊臣秀吉 北条氏宛宣戦布告状

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美術品の詳細情報

鑑定区分 - 推定制作時代 安土桃山時代
代表的な
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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