東京・銀座の托鉢僧―望月崇英さんの足跡
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望月
私が望月さんに最初に会ったのは、東日本大震災が起きて間もない2011年5月上旬、岩手県大槌町のがれきの中だった。見渡す限り、破壊された建物の破片が広がる一角で、望月さんは祈っていた。傍らに被災者とみられる女性が1人。取材のために被災地入りしていた私は、がれきの中に埋もれるようにして一心に祈る望月さんの姿をたまたま目にし、引き込まれるように話をきいた。
かつてアメリカで長く暮らし、帰国後、高野山で修行して高野山真言宗の僧侶となったという望月さんは、特定の寺に所属することなく、個人で活動を続けていた。震災の混乱の中で、犠牲者の土葬(仮埋葬)に踏み切った宮城県東松島市に入り、市の職員に申し出て供養の祈りをささげた。この経験で僧侶としての自らの使命を感じ取った望月さんは、その後も週末ごとに被災地を回っては、犠牲者に供養のお経をあげているのだという。頼まれて読経することもあれば、誰もいない場所で祈りをささげることもあった。そして、ふだんは東京・銀座で托鉢をしているのだと教えてくれた。
被災地での取材を終え、東京に戻った後に銀座に行ってみると、確かに望月さんがいた(2011年6月12日付の本紙記事で紹介。下記参照)。その後、私は大阪に転勤となり、3年半後に東京に戻ってくると、やはり銀座で望月さんが托鉢をしていた。その後も時々、銀座に立ち寄っては望月さんがいるかどうか確かめたが、平日の昼間なら大抵、いた。聞けば、その後もずっと被災地通いを続けているという。午前中は築地にある友人の焼き鳥店でアルバイトをして、午後から銀座に立つ。東京で託された祈りを、被災地に届けたいのだとも話していた。
望月さんの
望月さんの人生は、実に起伏に富んでいる。
アルバイト先の焼き鳥店の店主であり、高校時代からの親友でもある高田顕治さん(67)らによると、望月さんは東京都内の高校を卒業後、ミュージシャンを目指して1970年代に米ニューヨークに渡り、現地で様々なアルバイトをしながら10年以上暮らした。帰国後は、バイク冒険家の風間
どこか異国風の
40歳代で自らの人生に何ごとかを感じ取ったのだろうか。それまで縁もゆかりもなかった僧侶の道へ進んだ。友人たちは「アントニオがお坊さんに?」と驚いたが、信念は揺らがず、修行を終えて僧籍を得た。そんな望月さんが銀座の真ん中で托鉢を始めたのは、震災の前年、2010年の夏だったという。なぜ銀座だったのか、真の理由は分からない。バイト先の焼き鳥店に近かったことに加え、かつて空襲で多くの人が亡くなった東京都心は供養の場所として適当だと考えたのかも知れない。いずれにしても、当初驚いた友人たちはその後、「あの場所での托鉢は、アントニオの天職だった」と口をそろえることになる。