松井秀喜を5連続敬遠した投手が「勝負!」コールの甲子園で「迷ってベンチを見た一瞬」

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 「5連続」といえば、「敬遠」。あの有名すぎる甲子園での一戦は、1992年8月16日に行われた。(社会部・大井雅之)

スタンドから「勝負!」のコールがわき起こる中、松井選手を敬遠する河野さん(1992年8月16日、甲子園球場で)
スタンドから「勝負!」のコールがわき起こる中、松井選手を敬遠する河野さん(1992年8月16日、甲子園球場で)

 夏の全国高校野球選手権大会2回戦、星稜(石川)―明徳義塾(高知)戦。大会屈指のスラッガーとの呼び声が高かった星稜の4番・松井秀喜さん(46)=当時18歳=を相手に、マウンドに立った明徳義塾の投手・河野和洋さん(46)=当時17歳=は、ランナーがいてもいなくても、とにかくすべて、5打席連続で敬遠した。

 「皮膚の感覚がないくらいに、集中していた」。渾身の全20球。松井選手が一度もバットを振らなかったその試合、明徳義塾は1点差で辛勝した。

 勝利の校歌斉唱は、甲子園球場全体に広がった「帰れ」コールでかき消された。〈松井秀喜を5敬遠した男〉の、長くて苦い野球人生が、ここから始まった。

異次元の男、振らせるだけで「勢いづかせてしまう」

 「松井は相手にせえへんから」

 1992年、明徳義塾の投手だった河野さんは、馬淵史郎監督(65)からこう言われた時、すぐには理解できなかった。

 「運命の試合」の5日前。チームのメンバーは、1回戦に登場した星稜高校(石川)の4番・松井選手の打球をスタンドで生で見た。「ガキーン」とロケットみたいな音がして、すごいスピードで飛んでいく。一人だけ、異次元にいるようだった。

 「相手にしない」という言葉の意味がはっきりと分かったのは、2回戦で星稜と対戦する前の晩だ。馬淵監督は「全部するから」と言った。サインは、指で「4」。四球、つまり打者と勝負せずに一塁に歩かせる「敬遠策」だった。

 その後の人生で、河野さんは何度、聞かれただろう。

 「本当は、勝負したかったんじゃないですか?」

 そのたびに、こう答えてきた。

 「松井にバットを振らせれば、たとえ空振りでも相手は勢いづく。勝つためには、敬遠しかなかったです」

7回2死「勝負」よぎる

 「4番、サード、松井君」

 憧れ続けた甲子園で、河野さんは計5回、このアナウンスを聞いた。そして5回とも敬遠した。

 初回、三回、五回……。松井選手のホームランを楽しみにしていた観客は興奮でどよめき、回を重ねるごとに、それは不満と怒りに変わった。

 が、当の松井選手は「隙あらば打つ」という気迫に満ちた構えを崩さず、敬遠されてもふて腐れることなく淡々と一塁に向かった。

 このときの松井選手の姿について、当時の星稜監督・山下智茂さん(76)は、後にプロ野球・読売巨人軍の監督としてドラフト会議で松井選手を1位指名した長嶋茂雄さん(現・終身名誉監督)から言われた言葉を、よく覚えている。

 「あの、全打席でタイミングを待ちながら立っていた、相手をにらむこともなく冷静だった、あの姿を僕は評価した」。長嶋さんはそう言ったという。

 一方、投げた河野さんも冷静だった。「松井のことは怖くなかった。だって、打たれることはないから」

 そんな河野さんにも、七回に一瞬、迷いが生じた。松井選手の4打席目。すでに二死で、ランナーはいない。スタンドからは「勝負! 勝負!」というコールがわき起こる。ここでも勝負をせず、敬遠なのか?

 河野さんはちらりとベンチを見た。当時36歳だった馬淵監督は一切の迷いなく、敬遠のサインを出した。

 「並の監督なら、あの場面で敬遠はできない。これは本気だ、最後までやるんだと、馬淵さんの腹の据わり方をみた思いがした」

球場パニック 試合は一時中断

 最終回。1点を追う星稜は二死三塁という絶好の場面で松井選手の5打席目を迎えた。割れるような大歓声。しかし、観客もテレビの視聴者も、次の展開を予想できた。

 「勝負は、しません!」。朝日放送(大阪)で実況を担当した植草貞夫アナウンサー(88)が繰り返した。「本当は、1回くらい勝負したかったんじゃないかな。でも、余計なことは言わなかった」と植草さん。怒ったスタンドの観客がメガホンやゴミを投げ入れる。球場はパニック状態となり、試合は一時中断した。

 「あの中断で、僕らは冷静さを取り戻せた」。明徳義塾の捕手・青木貞敏さん(46)が言うように、河野さんは最後の打者をサードゴロに打ち取って、明徳義塾は勝った。

帝京平成大の野球部監督を務める河野さん(右)。「今も野球にかかわることができて幸せ。いつか、松井みたいなバッターを育てたい」(11月8日、千葉県習志野市で)=守谷遼平撮影
帝京平成大の野球部監督を務める河野さん(右)。「今も野球にかかわることができて幸せ。いつか、松井みたいなバッターを育てたい」(11月8日、千葉県習志野市で)=守谷遼平撮影

宿にまで苦情「なんで勝負せえへんねん」

 もともと外野手だった河野さんは、度胸とコントロールの良さを買われて甲子園で投げた。試合後のインタビューでは事前の打ち合わせ通り、「監督の指示でやりました」と繰り返した。

 「馬淵さんはその辺がカッコいい。全部、自分で責任を取りましたから」

 だが、「世間」は容赦なかった。明徳義塾が宿泊していた兵庫県西宮市の旅館「志ぐれ」(現在は廃業)では、「なんで、勝負せえへんねん」という電話が鳴り続けた。宿の主人だった阪下義則さん(70)は、「中には『爆破するぞ』という脅迫もあって、電話の回線を切った。郵便物も、激励以外は学校側に言った上で処分した」と明かす。

 河野さんは3回戦の広島工業戦でも投げたが、チームは思うようなプレーができず0―8で完敗。明徳義塾の夏は終わった。馬淵監督は「お前ら、ようやった」と泣いた。

 5打席で一度もバットを振れなかった松井選手は、その年のドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選の結果、巨人に入団した。その後の大活躍は誰もが知る通りだ。

 一方の河野さんは、「大学では外野手として打ちまくってやる。そして、松井と同じ舞台に立つ」と心に決めて、専修大に進学。強豪ひしめく東都大学野球リーグの1部と2部で通算111安打を放ち、21本塁打の結果を残した。

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