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[時東ぁみさん](上)視力のよかった私が眼鏡をかけ続けた理由…デビューで諦めた夢もあった
眼鏡姿が印象的な時東ぁみさんは、タレント活動の傍ら防災士としても活躍されています。なぜ眼鏡をかけて芸能活動をしようと思ったのか、そして、東日本大震災から12年を迎える3月11日を前に改めて防災について聞きました。(聞き手・山口千尋、撮影・中山博敬)
――2005年に漫画雑誌の読者投稿によるグラビアコンテスト「ミスマガジン」でデビューされました。
当時は普通の都立高校に通っていたのですが、読者モデルなどの芸能活動をしている友人がたくさんいました。ある時、友人から紹介されたモデル事務所の社長さんにミスマガジンのオーディションを勧められました。当時はマガジンという雑誌があることも知りませんでした。
一人だけオーディションでEXILE
――1万6000人の中から、グランプリや審査員特別賞が選ばれる中、時東さんは、 音楽プロデューサーのつんく♂さんが選ぶ「つんく♂賞」に輝きました。
その年から審査員につんく♂さんが入ったこともあり、オーディションでは、つんく♂さんがプロデュースした「モーニング娘。」や松浦亜弥さんの曲を歌っている子がほとんどでしたが、私はEXILE。男性ボーカルの曲を歌っていたのは自分だけでした。
つんく♂さんはオーディションで「おでこを見せて」と言うのですが、その時も全く恥ずかしがらずに「どうぞー!」とおでこ全開にしていました。普通の10代女子はちょっとためらってしまいますよね。そして、審査員席にいたつんく♂さんに「わー、本物だ!」って手を振っていました。
受賞後、つんく♂さんに「手を振っていたのはお前だけだし、誰よりも笑っていたね」と言われました。そんな変なポイントを面白がってもらえたのかもしれません。
――名前の「ぁみ」も変わっていますね。
当時、小さい「ぁ」や「ゎ」を使うのが流行っていて、つんく♂さんにメールを送る時にも自分の名前を「ぁみ」と送っていたら、「目につきやすくて、かわいい」と採用されて、今の芸名になりました。
――トレードマークになっている眼鏡をかけ始めたのは?
視力は1・0ほどありましたが、眼鏡をかけたら賢く見えるんじゃない? と思ってアクセサリー感覚でかけていました。オーディションは制服のまま行ったので、眼鏡もかけたままでした。その眼鏡が定着して18年になります。
眼鏡のマイナスイメージを変えられた
――今でこそおしゃれ眼鏡が当たり前ですが、当時は眼鏡をかけたアイドルはほとんどいませんでした。眼鏡をかけ続けることに抵抗はありませんでしたか?
眼鏡って、おとなしそうとか、スポーツができないみたいなマイナスなイメージがありますよね。でも、眼鏡姿で芸能活動をしていたら、ファンの方から「初恋の人が眼鏡をかけていたのを思い出して、ぁみさんのファンになりました」とか、「自分は眼鏡がコンプレックスだったけれど、ぁみさんを見て、眼鏡でもいいんだと思えました」など、うれしい言葉をかけられる機会がたくさんありました。
眼鏡をかけたタレント活動ってこんなに楽しいんだって思えたんです。
――普通の高校生から一転、芸能活動が始まりました。
冗談みたいな話なんですが、電車に乗ると乗客が持っている雑誌の表紙、中づり広告が全部自分だった、ということがありました。当時は、雑誌のグラビアの人気があったこともあり、いい時代にデビューさせていただいたな、と思っています。
デビューから5年ほどは、ほぼ毎日仕事をしていました。舞台に1週間出演しながら雑誌の表紙の撮影を行い、2日後にワンマンライブ、その後ロケでグラビア撮影して――という日々。実家に住んでいましたが、電気がついている時間に帰れたことがありませんでしたね。
6年目くらいで少し落ち着き、お休みの希望が出せるようになりました。デビューから18年たちますが、これまで大みそかにお休みを頂いたことは1回だけ、それ以外はずっとお仕事を頑張っていました。
あきらめた体育大学進学の夢
――多忙な芸能活動に戸惑いはありませんでしたか?
元々、バスケットボールや陸上をやっていて体を動かすのが大好きでした。パラリンピックに影響を受けたこともあり、お年寄りや体の不自由な人にスポーツや体の動かし方を教えるような仕事をしたいと思って、中学生くらいから体育大学に進学したいと考えていました。オープンキャンパスに行って、実技のテストの練習もして、あとは願書の提出というところでデビューが決まったんです。
実技もある体育大学は、学校と芸能活動の両立が難しいため進学はNGと言われてしまいました。自分がやりたいと思っていたことができなくなってしまい、落ち込みましたね。人生で大きな挫折でした。
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